狼少年とたぶん百一匹くらいの狼 - 2/6

 地面には薄く雪が積もっているが、特に寒くはなかった。そもそも本当に寒くても、ユーリが「寒い」と感じられたかどうかは定かでない。極夜の冬の森のような空間を、一人と一匹は連れ立って歩いてゆく。

 歩きながら、彼は高祖父にあれこれ尋ねた。

「ウルボーグと子を作るなどということが可能なのか。いつごろ交わったんだ」

「古き神々がまだ力を失わぬころ、そして我々が“ノルマン人の奴隷”ではなく、“我々自身”であると気づいたころだな。もう千年ほどは昔だろうか」

 狼の歩様でミクリクと歩きつつ、先代狼はそう答えた。人間ならけっして見えちゃいけないところが色々丸見えだが、もう狼だからいいんだろうか、とユーリは思った。

「代々軍役で生きていた、優秀な兵士を輩出する家系だと。そこまでは昔聞いた」

「ああ、外れてはいないな。開闢以来我々はそのような宿命さだめにあるらしい。だからこそ女王に魅入られたのもあるし、女王自身の性質を引き継いだ部分もある。だが文人を目指した者も少なくない。結局、何事も修めるには、勇猛さと不撓不屈の心構えが必要なのだ」

 白い息を吐きながら、先代は優雅に尻尾を振る。銀毛が多くそれなりに老いてはいるが、まだその筋肉はたくましく張って、美しくはある。

「同じ名前なのは偶然?」

 ユーリがそう尋ねると、先代ユーリはちらりと振り返り、微笑むような表情を浮かべた。

「さあな。女王はそこまでは関知せぬよ。ただ、我々が表向きだけでも聖書の教えを受け入れて以後、変革期を迎える当主には不思議とこの名が多い。勇ましさと気高さは、教えと信仰の枠を超えて好まれるということだな。そら、着いたぞ」

 先代が鼻面で指す方に現れたのは、ヒバやモミの枝で覆われた、小屋のような建造物だった。見た目は狼の穴ぐらのようだが、やたらでかい。先代は雪の積もる青い枝をかき分け、木の扉を三度ひっかいた後、そのまま鼻面で押し開けた。

「さあ皆の者!長らく待ちかねた、我らが若き王のお帰りだ。出迎えを」

「ワオーン!」

「ワオオーン!」

「うわっ」

 あとから続いて入ってきたユーリは、部屋中を埋め尽くす狼の群れを見て驚いた。というより若干引いた。あちこちで毛むくじゃらの塊がわさわさと蠢き、肉食獣の鋭い目が彼を射貫く。

「……これ全部俺の父方の先祖か」

 ひしめきあってぶんぶん尻尾を振る狼たちを前に、彼は呆然とつぶやいた。お屋敷のようなだだっ広い部屋の中に、目算でざっと百匹はいただろうか。多少違う毛色の個体もいたが、みんな銀毛にやたら鮮やかな赤の混じる毛皮だ。

「そうだ。この姿になるのを望んで認められた者だけだがな」

 先代狼は気持ち胸を張り、誇らしげに答えた。

「ふーん……そうか……」

 ユーリは答えつつ、さり気なく部屋の隅々に目を配った。

「探してもお前の父はいないぞ。奴は我らが血脈を裏切ったのだから。恥さらしめ」

「ああ、きっちり罰されているようで安心した」

 彼の意図を察した先代が、すぐさま厳めしい顔で答えた。金色の目を細め、不機嫌な鼻息をつく。嫌な奴はいないと知って、ユーリは小気味よく思った。

「今頃コニャックの匂いのする南京虫にでもなってるはずだ」

「あ……そう……(さすがにご愁傷様です)」

 親父の情けない末路が脳裏に過り、彼は今度は(ほんの少しだけ)気の毒になった。俺にやったことを考えれば当然だけど、さすがにペナルティ重すぎない?と思った。ちなみに「南京虫」ってのは、今流行りのトコジラミのことである。

 そんな二人を差し置いて、群れの他の狼――――もといご先祖様たちは、うずうずそわそわと足踏みしていた。待ちに待った現当主・ユーリの到来に、興奮が抑えきれぬようだ。

「若王様!お疲れではありません?さあ遠慮なくそこにお座りなさいな」

 群れの一頭が彼を見上げ、嬉しそうな顔でこう言った。それを皮切りに、他の狼達もそうだそうだとうなずき、ユーリの服を引っ張って、毛皮を敷いた木の玉座に座らせる。

「な、何をする!」

 不意を突かれたユーリは抗議の声を上げたが、長年リーダーを待ち望んでいた狼たちは、あっという間に若王の周りに群がった。かわるがわる鼻面を押しつけ、狼らしく匂いを嗅いでじろじろ眺め回す。

「うむ、この鮮血色の髪、たしかに我らが血脈の強き若人の証」

「眼は金目じゃないのね」

「いや銀目の子は予言に優れていると申しますぞ。遠矢の神の血が強く出ていますからな」

「ふんふん……イヴァノーフの血脈の匂い」

「いやまさに、我らが未来を担うべき強きの子。これから一層猛き益荒男ますらおになるに違いない。嫁を迎えるにはまだ早いですが」

「おい、勝手に他人を嗅ぎまわって勝手なことを言うのはやめろ」

 狼でなかったらセクハラまがいのことを言われ、ユーリは群がる先祖たちを追い払った。それでもなお彼らは、期待の次期リーダーかつ貴重な群れの仔に対して、いろいろと世話を焼きたいようである。健気と言うべきか。

 気立ての良さそうな雌狼が、遠慮がちにユーリを見つめて言った。

「若王様、お寒くはありませんか?毛皮のお召し物をどうぞ。熊でも狐でも馴鹿トナカイでもお好きなものを、ともあれ一番よいのは、我々の毛で織った毛織物ですが」

(抜け毛の塊とか嫌なんだが)

 別に寒くもないしそれはなんか嫌だなと思いつつ、さすがに失礼かと思ってユーリは黙っていた。

 また別の、少し年上らしき雌狼が、くわえた金のスプーンを渡しながら言った。

「お茶はいかが?若王様のお好みは清国のもの?それともセイロン産?何なりとおっしゃって。森で集めた木の実のヴァレーニエもございます」

(狼なのにどうやって淹れるんだ)

 四つ足じゃないか、そもそも火が使えるのかと、ユーリは心底不思議に思いながら、それでも口に出さなかった。

「討ち取ったニンゲンの生き肝食うか?」

「断る!!」

 若い雄狼からとんでもない貢物を提示され、ユーリはそれだけは即座に撥ねつけた。うちの先祖何したんだ正気か?と思ったが、千年の歴史を考えるとしょうがない……ノルマン人の戦闘奴隷やってたっぽいし、中近世なんて血まみれでなんぼの時代だし、と無理やり納得した(というかもうこれ以上自分の中で触れないことにした)。

 あっちもこっちも視界全部狼、というかフレンドリーな大きな犬だらけ。

 右も左も肩も膝の上も、もふもふのご先祖に埋め尽くされてユーリは嘆いた。

「ひいひい爺さん、どうにかしてくれ」

「ワフ……許せ、皆お前が可愛くて仕方ないのだ」

 彼と同じで微妙に空気が読めない先代は、ちんがり笑うだけでどうにもしてくれなかった。同じ血筋の奴に期待した俺が馬鹿だったと、幻滅しながら目を逸らした時、当代はひときわ小さい狼たちに気づいた。

「あの連中は随分と幼いが」

 小さな毛玉みたいな一集団が、少し離れた所からずっとユーリを見ている。

 耳も鼻面もまだ短く、つぶらな黒い瞳でぽてぽてと丸い。どう見てもまだ仔イヌなのは明白だった。

 先代狼は口を開いた。

「不幸にも若くして死んだ者もいる。戦禍や流行り病でな。お前と変わらぬ年頃の者も、それより幼い者もいる」

「……」

「お前は幸運なのだよ」

 黙り込むユーリを、先代はじっと見つめた。

 彼に敵意がないことを嗅ぎ取ったのか、仔狼たちはおそるおそるユーリに近づき、それでも何もされないと分かると、尻尾を振りながら膝に飛び乗った。

「若王様、遊んで」

「お腹撫でて」

「散歩に出かけませんか。どこまでもお供しますよ」

「そいつはいい。我々も同行しよう」」

「そうだ、あの悪竜ズメイを成敗に、一狩り行きましょうや」

 「狩りに行きたい」とねだる仔狼達に、ちゃっかり大人達も便乗してそんなことを言い出す。ユーリを見上げる無数のきらきらした目。現世のしがらみから解放されたご先祖たちは、すっかり狼、もとい犬の本能に染まりきっているようである。

「「「ワフワフワフワフワフッ」」」

 期待を込めた満面の笑みで(たしかに「笑み」としか言えないイヌの表情で)、イヴァノーフ家の祖霊達はユーリを見つめた。

 “人類最古にして最良の友”たる犬は、遠い昔狼から分離したというのもむべなるかなである。この一点の曇りもなく、親しき者を信頼しきった表情には、思春期真っ盛りのひねくれユーリも太刀打ち出来なかった。

「わかった!わかったが俺の体と魂は一つしかないんだ。全部いっぺんになど出来るわけがないだろう、だから各自の願いを一つずつ聞いていく。それでいいな?」

「ワフゥ……仕方ありませんね」

「仰せのままに、我らが王よ」

 祖霊狼たちは若干不満そうな顔をしたが、一応は納得してくれた。