槿花一朝のヴァレーニエ - 2/4

 侵略は止まらない。

 暴力と破壊の惨禍はとどまるところを知らない。

 力を尽くした割には、少々時間がかかりすぎた。そのせいで出さなくてもいい犠牲を増やしてしまった。間違いなく、これは俺たちの罪。

 だが、それもようやく終わりだ。

(待っていてくれ、同胞たちよ……そして罪なき者たちよ。これが最後だ。これから、あとわずかばかり流す血が最後の―――――)

 もう少し、あとわずかの苦痛を耐えれば、すべての苦しみは終わる。踏みにじられた側も、踏みにじった側も。そして翻弄される双方の民も……。

 思わず引きずられた感傷を、無粋なノイズが打ち破る。電話じゃなくて専用無線の方だ。ありふれた業務用に装った”それ”を確実に掴み取る。

「血の十字引く銀の槍、勇士は生きているか?墓石の立つ野辺で?」

「ドニエプルの古塔で生きているよ。ユランは砂地を緑に変え、ひまわりの花ももうすぐ咲く。……無事でよかったぜ、ユーリ」

「お前もな、イワン。真面目な奉公人の顔をして、随分と大暴れしたんじゃないか?」

「まあな」

 合言葉の後にお互いの無事を確かめると、小さな盟友は得意げに言った。

「鉄道システムを落としたぜ。今中央銀行の送金を管理するサーバーを狙ってる」

「ああ、たぶんお前の仕業だろうなと思っていた。後方支援感謝するよ」

 その働きぶりに対して、素直に賞賛と感謝を述べた。俺は電子的なことはからきし――――というわけじゃないが、だいぶ畑違いなもので。

「そっちはどんな具合だ?」

 尋ねられたので、こちらも進捗を伝えた。

「俺も準備はできてる。ボリスと手長公の前で落ち合う手筈だ」

「セルゲイはどうするって?」

 もう一人の盟友の名前を出され、一瞬重い気持ちになる。奴には平和的なことが似合うゆえ、今は道を別にしているが、関係まで切れたわけじゃない。

「あいつには万が一の時の、俺たちの後始末を頼まねばならない。それに、将来有望なアカデミーの研究員、しかも妻子持ちを、軽率にこんなことに付きあわせるわけにはいかんだろう」

「そうだな。……科学アカデミーも大変らしいし」

 向こうも同じことを思ったのか、うなずいた後しばらく押し黙る。神妙な空気を打破したくて、お互いを鼓舞するつもりで計画を伝えた。

「非難声明を出したせいで目をつけられているしな。あいつのことだから、いよいよ危なくなったら世界中の伝手を頼りに無事逃げおおせるだろう。もしものことがあれば、逆に俺達が救助に行く。心配するな。お前はお前の役割を頼む」

「了解」

 そう伝えると、イワンはもう寸分の迷いもない声できっぱりと言い切った。情報戦と根回しの方は、任せておいても大丈夫だろう。

「じゃあ、そろそろ行くぞ。お前とも終わるまでは会えんな。元気で」

「ああ。お前らもどうか無事で――――――またな、ユーリ」

 暇を告げると、わずかばかり名残惜しそうに、彼は答えた。

 そして無線は短いノイズを残して切れた。

 

 余韻に浸る暇もない沈黙が、暗い部屋を支配する。

 いよいよだな、という気持ちがいや増してくる。

 

 今日で永遠に引き払うこの部屋には、目ぼしいものはもう何もない。必要最低限のものを搔き集めて出かける準備をしていると、捨てていくテーブルに置いたスマートフォンが鳴った。

「最近随分と人気者だな」

 かすかなわずらわしさを皮肉で片づける。新しい依頼ならしばらくお断りだ―――――と思ったが、画面を見た瞬間にその感情は吹き飛んだ。

「木ノ宮……!」

 液晶に映っていたのは、忘れがたい日本語の名前。読み取るや否や、自分でもなぜだか分からぬうちに、ほとんど反射的に通話ボタンを押していた。

「もしもし」

「ユーリ!」

 電話に出ると同時に、日本語発音での名前が飛び込んできた。こちらが二の句を継ぐ前に、木ノ宮は心底安堵した様子で次々と喋りだす。

「よかった……!まだ生きてた!大丈夫か?ボリスたちは無事?」

「……おい、よりによって、これから同胞を殺しに行く人間の心配かよ」

 だいたい予想はついていたが、思わず呆れてそう尋ねてしまった。気にかけてくれるのはまんざらでもないが、あまりにも情勢を無視したような発言だ。

 すると、木ノ宮は怪訝な様子でこう返してくる。

「いや、カイからお前が大変なことになってるって聞いたから」

 まるで分かってないような回答に、俺は拍子抜けする。火渡との会話内容は知る由もないが、単にちょっとした入院でもしたかのような調子だ。その平和ぼけ加減が、今は逆に程よく緊張を解いてくれる。

「火渡が何と言ったか知らんが、俺達はこのとおり無事だし、今度は本気で危ない案件なんだ。生半可な気持ちで余計な首を突っ込むな。下手をしたらお前らにまで危害が及ぶぞ」

 その友情に感謝する意味も込めて、警告も兼ねて釘を刺してやった。……実際、政府方には日本にまで手を伸ばすような、物好きで執拗な奴がいないとも限らない。

「でも、ユーリたちは俺の友達だし」

「だからお前」

 何を思ってか、木ノ宮はまだ食い下がる。今度こそ一喝してやろうと思ったところに、彼は言葉をつぎ込んできた。

「心配なんだよ!国と国の間に何があったかなんて、正直、俺にはよく分からない。ユーリは軍事の仕事してるし、ひょっとしたらロシア側に就く気かもしれないとも思ってる。でも、俺はお前ら一人一人の顔を知ってるんだから、まず一番にみんな無事なのかが気になるだろ!……そりゃ、今は“ロシア”ってだけでいろいろ言う奴はいるけど、でも俺は!ユーリがそんな奴じゃないって知ってるから」

「……」

 勢いに押されて、俺は押し黙ってしまった。あまりにも純粋無垢すぎる気遣いだが、それだけに至極真っ当だなと思った。まるであの頃の、真っ直ぐな瞳の少年そのままだ。

 木ノ宮は続ける。

「やりたくてやるわけでも、殺したくて戦争に行くわけでもないんだろ。俺にはお前の事情も気持ちも全部分かるわけじゃないけど、ユーリが本当は優しい奴だって知ってる。人の命を賭けて無意味に戦ったり、力を手に暴走したりする奴じゃないって分かってるよ」

 相当買いかぶりすぎだろう、と思ったが、なぜか言い返すことはできなかった。多大に美化された虚像に向けられたものであっても、「信用している」という言葉は、時に弾丸よりも重い威力を持つ。

「ロシアのやったことは俺だって許せないと思う。できるならお前にも戦争に反対してほしい。けど危ないんだったら、無理に反抗なんかしないでほしい。それこそそんなの、部外者の俺が軽々しく言えることじゃない」

「……木ノ宮……」

 気づけば諭されているのはこちらの方だった。あの頃と同じ。俺の方が上に立っていると思っていても、いつの間にか引き込まれて、あいつの掌の上にいる。

 この理不尽な戦争が始まってから、俺が“どうするか”を心配した声はあっても、俺自身を案じた声をかけられたのは久しぶりだった。

 実のところ、マグレガー以外からも数名から、何度かお門違いな非難を浴びたりはした。“侵略国”に生まれたからという理由で、俺にそんなことを言われても困るという話だ。慣れているので適当にあしらったが、まったく嫌な気持ちにならないわけではない。

 だから、木ノ宮から掛け値ない言葉を与えられた時―――――つくづく悔しいが、嬉しいと思ってしまったのだった。

 俺は長いこと口を閉ざした。何を言おうとしていたのか、どうでもよくなってしまった。

「……毎回思うが、変わらないな、お前は」

「え?なんか言った?」

 小声でつぶやいたことを問い返されたが、そのまま聞き流した。何もなかったことにして、改めて日本語で言い直す。

「そこまで分かってるなら、俺から言うことは何もないさ。そしてお前に、これ以上出来ることがあるとも思えない。せいぜいこの戦争が早く終わるように祈ってろ。それと、もうこの番号にはしばらく掛けてくるなよ。傍受されているかもしれんのでな」

「なあユーリ、本当にさ……無理すんなよ?友達がどこか知らないところで、戦争で死んじまうなんて嫌だしさ」

 木ノ宮は相変わらず俺を心配している。

「ああ、わかったわかった」

「また日本に来いよ」

「そうだな。これが全部終わったらな。……いつになるか分からんが」

 最後の言葉は聞こえたか分からないが、俺はそのまま通話を切った。

 画面が真っ暗になった後も、俺はしばらく液晶画面を見つめていた。何を求めていたのか、分からないけれど。

 会話の残響が静寂に溶け出すに従って、だんだんと我に返り、再び口を開いた。

「本当に、呑気な奴」

 明かりのない天井を仰いで独りごちた。自分でも気がついているが、自然と口元が緩んでしまう。昔の俺なら怒り狂っていただろうな、戦闘のない別世界のようなところから、お為ごかしに心配の言葉なんか投げかけられても、と。

 そう思うと余計に滑稽で笑えてきてしまった。なんだかんだ言って、俺も“人のぬくもり”とやらを求めているらしい。そしてそれを皆から奪いつつあるこの戦争が、改めて憎いと思った。

「さて、お別れの挨拶も済んだことだし……行くか」

 誰にともなくそうつぶやくと、俺はまとめた荷物を手にして部屋を出た。