日々、ただ、善き哉。第四話 ~脱出、その2~ - 4/5

 夜の闇はどこまでも広がっている。火は順調に燃えていた。幸い〝小西部鉄道〟はティッドマスまではほぼ単線だ。こんな夜中に通る機関車もそういないだろう。逃げ出そうとでもしていない限りは。

「トード、大丈夫?」

 僕は運転室の中のトードを気遣って言う。

「げほっ……平気です。まだなんとか。…………働いている方が、元気になれるって本当ですね」

 トードは咳をしながら答えた。

「そんな冗談言って」

 不調気味ながらも、ジョークを飛ばす余裕のあるトードに、僕は少し安心した。

 しかしその時、後方から別の不気味な音が近づいてきているのに気付いた。

「何の音?」

 不審に思って僕がつぶやく。するとトードが焦った声で叫んだ。

「オリバーさん!大変です!暗くてよく見えませんが……〝小西部鉄道〟の皆さんです!」

「!」

 その言葉に戦慄し、音に耳を澄ませる。機関車の走行音だ。よく似たのが二つ、少し遅れて一つ――――――ドナルドとダグラス、それからダックがものすごい勢いで走ってきていた。振り返るまでも無く(どうせ出来はしないが)、差は見る見るうちに縮まっていく。僕は歯を食いしばった。

「捕まるわけには……いかない!」

 ここで捕まったらトードは完全に壊されてしまう。何としてでもその結末だけは避けなければならなかった。僕はありったけの力を振り絞り、今までこうも速くピストンを動かしたことはない、というほどの勢いで線路を駆け抜けた。

 その時だった。

 何か、ガクン、というような衝撃を感じて体から力が抜けた。

(あれ?何だろう、急に力が――――――)

 それと同時に、異常な喉の渇きを感じた。息が上がってくる。なんだろう、体が熱い…………。

(そうか!水だ!水が足りなくなったんだ!)

 帰ってきたとき、給水するのを忘れていた。そういえば石炭も残り少なかったはずだ。

 僕らは人間になると、その瞬間の状態が次に機関車に戻るときにまで固定される。そのことを忘れていた僕は、うっかり水と石炭が足りないままで出てきてしまったのだ。

 一瞬、体の熱さとは裏腹な寒気を感じたが、僕はなんとか取り繕って、わざと普通の声で言った。

「トード、大丈夫だからね、もう少しで支線を抜けるから……」

 顔が知られ過ぎている支線を抜ければ、見つかるリスクは減るだろう。できるだけ楽観的にそう考えた。今はとにかく全力でダグラスたちを撒き、支線から出て、人間の姿でしばらく隠れていればいい。そう思った。だけどトードからの返事はなかった。

「はぁ……はぁ……」

 苦しそうな荒い息遣いだけが聞こえる。吐息がかかるたびに感じる体温が、僕と同じように熱い。

 おかしいぞ、と思った瞬間、彼が運転室の中でずるずると崩れ落ちるのが分かった。

「トード⁉」

 僕は思わず叫んだ。するとトードは正気を取り戻したのか、シャベルにすがって立ち上がり、壁にもたれかかろうとした。

「……う…………オリバーさん!前!」

「⁉」

 そのとき不意に彼が叫んだ。後ろに気を取られていた僕もようやく前を見て、迫りくる危機に気がついた。

 貨物列車を引いたジェームスが真っすぐこっちに向かってくるところだった。真っ暗な闇の中、お互いの前照灯が、その不機嫌そうな顔までしっかりと照らし出す。当然管制に連絡などしていない。閉塞などされているわけもない。このままでは、ぶつかる―――――。

 もうこれしかない。

 僕はとっさに人間に変身すると、トードを抱え込むようにして線路から飛び退いた。

 上手い具合に僕を下にして草の上に落ちた。そのまま線路脇の土手を何度か転がって、再び平らな所に落ちる。そしてほぼ同時にジェームスが、さっきまで僕らのいた場所を通過していった。

「何だあれ⁉」

 凄まじく耳障りなブレーキの軋む音がして、ジェームスが驚いて叫んでいるのが聞こえた。と同時にダックの声がする。

「ごめん、ジェームス!オリバーたちが緊急事態なんだ!」

 僕は慌てて身を起こし、動かない体に鞭打ってトードを担ぎ上げて走った。

「いましたぞ!あそこです!」

 気配に気づいて、ドナルドらしき声がする。振り返ることなく、僕は全力で駆けた。

「ま、待ちなさい!オリバー!」

「早く追いかけますよ!ダック、ドナル、みなさん!」

「言われなくても、分かってるよ!」

 叫び声と足音がして、すぐさま追手は迫ってきた。

 みんなが追いかけてくる。僕は必死で走った。

 しかしエネルギー切れの体ではどうにもなるものではなく、ついに足がもつれ、僕はその場に倒れ込んだ。

 夜露の降りた草の上を這いずりながら、せめてもとトードを彼らから守るように隠す。その間に、ついに彼らに追いつかれてしまった。

「オリバー!逃げるな、話を聞いてくれ」

「いやだ、聞くことなんて、何もありません」

 彼らに背を向け、僕はきっぱりとそれを拒んだ。

「どうして我々をそんなに避けるんだ?戻ってきてくれ、早く戻らないと、トードが死んでしまう――――」

 シルバーさんがそう言うのを遮って、僕は怒りと悲しみをないまぜにして叫んだ。

「戻ってあなたたちに渡したら、それこそトードはバラバラになってしまう!どんなに古くても、僕は彼が一番大切なんだ!僕だけが大事にされて長生きして、彼はスクラップにされてしまうなんて……そんなの、間違ってるよ!耐えられない!」

「お前……」

 彼がうわごとのようにつぶやいた。皆は急に押し黙り、僕らを見つめる。僕は荒い息を繰り返しながら、トードをしっかり抱きしめた。空気がぴんと張りつめているような気がする。みんなの視線が冷たく突き刺さるような気がして、目を合わせられない。

 そのとき、その沈黙を、ヒースさんが破った。

「オリバー!君は何か勘違いしているよ!君の断りなしに、トードをスクラップにしたりしない!バラバラにすると言ったのは、一旦分解して組み立て直さなくちゃってことだったんだ。トードは元気になる!君の許可なしにどこへも行かないよ。行かせない」

「え……」

 思っていたのとは異なるその言葉に、僕は唐突に拍子抜けして、言葉を失った。

 ブローズさんが申し訳なさそうに言う。

「悪かったなあ……。俺の軽口で、お前はすっかり思いつめちまったのか。でも、心配するな。単なるオーバーホールだ。スクラップになんざ、させねえよ。トードはお前と俺たちの大事な相棒だもんな」

「ブローズ……さん……」

 他ならぬ疑念の原因となった彼の言葉が、深く僕の胸に沁み渡った。

 トードは大事な相棒。だからスクラップにはしない、オーバーホールしてやるんだ、って。

 じゃあ、みんな、僕と同じ……トードを壊すつもりじゃ、なかったんだ……?

 呆然と座り込む僕を、みんなが心配そうに見ている。どこにも冷たさなどなかった。心から、僕らふたりのことを案じている目だった。

「早く戻っておいでよ!みんな、君たちのこと心配してたんだよ、ずっと」

 ダックがそう言った。それで僕はにわかに安心し、自然と笑みがこぼれてきた。同時に、今までのことが一気に吹き出してきて、トードを抱きかかえたまま目頭を熱くした。

 トード……なんだかずっと、悪い夢を見ていた気がするよ……。

***

「あっはははは!オリバーさんって意外とおバカなんですね!」

 あれから数週間して、トードは元気になって帰ってきた。前よりずっときれいに、そして元気になっていた。

 僕が勘違いをしてあんなはた迷惑な一人芝居をしていたことを話すと、彼は怒るどころか可笑しそうに笑い転げた。そして珍しく僕を皮肉ってきた。

「そこまで言わなくってもいいだろう?それにあの時は本当に、君がスクラップにされるんじゃないかって心配で、頭が一杯で」

 僕は少しきまり悪く感じながら、それでも精いっぱいの抵抗をした。すると、トードは笑いすぎた涙をぬぐいながら、ふっと、遠くを見るような目つきになって、こう言った。

「……でも、ちょっと嬉しかったですよ。夢も叶ったし、オリバーさんがそこまで僕のことを考えてくれてるんだなって」

「トード……」

 その言葉に、僕は再び胸がいっぱいになるのを感じた。

「ブレーキ車……いえ、オリバーさんの相棒でよかったです」

 トードはそう言って笑った。今までと同じ、無邪気な笑顔で。

「僕も、本当に良かったと思うよ。……今度は君ひとりだけを失ってしまうんじゃないかって、不安でたまらなかった」

 するとトードは、僕をじっと見つめた後、穏やかに微笑んで、こう言った。

「僕はあなたを置いてどこへも行きませんよ。あの時(、、、)約束したでしょう?これからはずっと、あなたの側にいるって」

「……そうだね」

 暖かい陽だまりのような笑顔を見つめながら、僕は彼が言った「あの時」のことを思い出していた。

 すると、トードは不意にその表情をにっ、と歪ませ、いたずらっぽさに満ちた笑顔を見せた。

「まだまだスクラップになったりしませんよ。だって、あなたのことが心配ですからね」

「なんだよ、子ども扱いして」

 憎まれ口をきいたが、本当はとても嬉しかった。元気な彼がいることが、それだけで、どれだけ僕の日々の支えになっていることだろう。

 また一緒に働けるようになって嬉しいよ。

おしまい。