日々、ただ、善き哉。第四話 ~脱出、その2~ - 3/5

 僕は恐ろしくなって、そのまま家に逃げ帰った。震える足がもつれそうになり、何度もつまずきかけたが、夢中で息を切らし、全速力で走った。

 家には明かりなど点いていなかった。

 誰もいない闇の中に辿り着くと、そこで急に糸が切れてしまって、誰にも構わず大声で泣きはじめた。

 胸がざわついて苦しくて、とにかくこの喪失感と痛みを吐き出そうと必死だった。世界が自分の足元から、ガラガラと音を立てて崩れていきそうな気がしていた。この感覚は、かつて……僕らが大西部鉄道を追われた時のそれと似ていた。

 涙はあとからあとから溢れてくる。震えも止まらない。僕は怖かった。今まで自分の側にいたものが、突然奪われる恐怖―――――切り離されてひとりになるのは今更耐えられそうにもなかった。トードを失うのが、怖くてたまらなかった。

 しばらくしてだいぶ落ち着いてくると、僕は月明かりの中で膝を抱えて、これからのことを考えた。

 もちろん彼をスクラップにさせる気など微塵もなかった。世界中のすべてが僕らに背いても、僕だけは彼の味方だ。どうにかしてトードを救いたかった。

 ブローズさんたちも、解体に賛成らしい。もう味方はいない。僕らは世界にふたりぼっちになってしまった。動けるのは僕だけだ。それなら――――――――、

「…………逃げ出さなきゃ。あの時みたいに」

 月の光の中で、僕はそうつぶやいた。

 数分後、僕は再び操車場に戻ってきていた。わずかな旅支度を手に、待避線のどこかにいるトードを探す。

 果たして、トードはほどなくして見つかった。疲れきった表情を浮かべ、貨物小屋に留め置かれている。

 僕はそんな彼を見るとなんだか胸がいっぱいになり、前に走り出て、大きな声で叫んだ。

「トード!逃げよう。ここから遠くへ……みんなの手が届かないところへ」

「オリバーさん……どうしたんですか……?」

 闇の中で、貨車の姿のままの彼が目を覚まして僕に訊いた。持ってきた荷物を差し出しながら、僕は彼に事情を説明した。

「彼らは君をスクラップにするつもりなんだ。僕は君を壊させたくない。だから今すぐ逃げよう!ここから!」

「……え……?」

 僕はトードにできるだけ暖かい格好をさせ、逃げ出す準備をした。

「トード、辛いだろうけど、人間形態のままでいてくれないか。人間の状態なら、僕が君を担いで行けるから」

 僕はそう言って自分も身支度をすべく、靴紐を締め直した。しかしふと気配でトードを振り返ってみて、僕は驚いた。

「トード⁉なんでそんな服装してるんだ!」

 傍らに立っていたトードは、さっき着せた暖かいコートを脱いで、いつもの作業服にマフラーと手袋だけの出で立ちになっていた。手にはしっかりとシャベルが握られている。

「熱があるのに、暖かくしていなきゃ駄目だろ⁉それにそのシャベル……石炭でも焚くつもりか?」

 意味が読めない彼の行動に、僕は声を荒げた。

 ところがトードはさも当たり前かのように、シャベルに寄り掛かって僕に言った。

「……だって一刻も早く逃げなきゃいけないんでしょう。それなら、オリバーさんは機関車のままで、僕がオリバーさんに乗って逃げたほうが早いです。大丈夫です……罐焚きの仕事も上手くなったんですから」

 僕は驚愕した。

「でも!そんなこと――――」

「お願いします。一緒に旅に連れてってくれる約束でしょ?」

 口ごもる僕に、トードは弱々しく、でも力強い目の光を放って、微笑んだ。

 それでもう僕は何も言えなくなった。

「……分かった。だけど、何かあったらすぐにやめてもらうからね」

 僕はトードを機関士兼助手にして逃げることにした。これがもしも平和な時に起こった出来事だったならば、こんなに心躍る体験はなかったと思うのに……。

 だけどそんなことを楽しむ余裕は今の僕らにはなかった。人気のない物陰を選んで移動し、無人のホームへ出る。すぐさま僕は機関車に戻り、トードが乗り込んだ。

「全力で行くよ!他のことも、出来る限り君に頼らないようにやってみせる」

「ええ、僕も頑張ります。ふたりで……必ず、逃げ切りましょう」

 運転室の中で、トードが囁いた。

 三日月の照らす線路を、僕らはたったふたりで走り出した。

「オリバー!いったいどこに何し――――待て、どこへ行くんだ!」

 ちょうど僕らを探しに現れたブローズさんの声がした。僕らは答えずにそのまま走り去る。

 ほどなくして、立ち尽くしている彼らは闇の彼方へ見えなくなった。

 走り去るオリバーを見て、ブローズは混乱したようにつぶやいた。

「何だ?いったいどういうことだ?それにあいつ、なんでひとりで動け――――」

「まさか……彼」

 ダックは何かに気づいたように、彼らの去った方向を見つめた。そしてブローズに焦った口調で言った。

「たぶんトードを乗せてるんです!さっき、ちらりとだけ人影が見えました。トードに火を焚かせて、走っているに違いありません。ふたりで逃げるために!」

「そんな馬鹿な!なんでそんなことをする理由がある?」

 ふたりきりで逃亡した、という言葉に、全員が驚いて目を見張る。ダックは続けた。

「オリバーはトードがスクラップにされてしまうと思い込んでいるんです。……たぶん、あなたたちが、トードをバラバラにするって言っているのを、聞いてしまったから」

「何だって⁉」

 ブローズが目を剥いた。クルーたちは顔を見合わせる。ダグラスが叫んだ。

「急いで追いかけなくては!このままでは、本当に取り返しのつかないことになってしまいます!」