日々、只、善き哉。 第0話
Saga of the Western Engines 後編 ~脱出、その1~ - 9/15

「……すみませんね、整備までしていただいて……」

 本線から隔離した支線の中、フィッシャーを初め先の駅のスタッフはオリバー達のメンテナンスに精を出していた。疲れ切った三台は今はぐっすり眠っている。クルーたちもゆっくりと休み、英気を養っていた。

 サイドロッドの具合を確かめながら、年配の整備士が言う。

「なに、構やしませんよ。どうせこの駅、もうすぐなくなるんです」

「えっ!」

 老整備士は寂しそうに言った。

「ビーチング閣下の斧が下りましてね……リストラですわ。だから最後に、大西部鉄道の蒸機を拝んで、しかも逃がす手伝いをすることが出来て、そりゃあもうみんな誇らしいったらないですよ。鉄道員冥利に尽きます」

 彼はそう言って、それから見張りに立っているフィッシャーに目をやった。

「そこのフィッシャーなんか、まだ若いっつうのにね。蒸気機関車に憧れて入って来たのに、まさか走ってるのが無愛想なディーゼルばっかで、おまけに仕事場がなくなるとは……奴が可哀想でさあ」

「いいんだよ親父さん。だってここで働いてたから、おそらく蒸気機関車の最後の生き残りを見ることが出来たんだ。すごいことだろう?一生僕の自慢話にするよ」

 フィッシャーは本当に、心底嬉しそうに言った。そこに寂しさは微塵もなかったが、行く末を案じる身になったことは彼も同じだろう。

「ところでディーゼルどもの具合は?」

 ブローズが問うた。

「……駄目ですね……一向に警備を緩める気配がありません」

 フィッシャーは土手の向こうを覗いて難しい顔で言った。

「うーむ……そうか」

 聞いていたセージも渋い顔をした。しばらく考えたのち、彼は駅員たちに切りだす。

「イザベルも整備してくれないか。ついでに、少し話がある」

 長い眠りから僕がようやく目覚めると、後ろのイザベルの周りで声がしていた。どうやら彼女も整備してもらっているらしい。今は引っ張られているだけだけど、彼女だって特別な客車なんだから整備してもらわないとな……と思いながら、あまりに眠たいので、またうとうとした。

 次は完全に目が覚めた。なんでだろうと思い返して、久しぶりに罐に火が入れられているからだと知った。僕はそろそろ出発するのだと悟った。だから、ブローズさんに今日の夜早速出発するぞ、と言われた時もさして驚かなかった。

 優しい駅の人たちと別れるのは寂しいけれど、僕らの目的地はもっと先なのだから、行かなければならない。むしろ手厚く世話された分、頑張って走れるような気がしていた。生まれ変わったようにすがすがしく高揚した気分だった。

 話し合うことがあるから、と、ブローズさんたちはしばらく駅の方へ戻って行った。その間にフィッシャーさんたちが来て、僕らを丁寧に磨いて塗り直してくれた。

「お前ら妙にキレイになってるな?」

 戻って来て僕らを見て、ブローズさんが驚いたように眉を上げた。

「磨いてもらったんです。剥がれていたところも塗り直して」

「ツギハギでごめんね。時間が足りなくって」

「いいんですよ」

 ペンキの缶を提げたフィッシャーさんが言った。こんな状況で、錆が出ないように塗ってもらうだけでもありがたい。

「僕も塗り直していただきました!白い屋根になったのは久しぶりです、あはっ。ね、イザベル」

 同じように、剥がれて汚れた部分を綺麗にしてもらったトードが言った。よほど嬉しかったのか、珍しくはしゃいでイザベルに語りかける。

「え、ええ……そうね」

 ところが、イザベルは何か不安そうだった。引っかかるような言い方が少し気になった時、セージさんが口を開いた。

「オリバー、話がある」

 頼みごとを思わせる口調に、僕は自信たっぷりに答えた。

「何ですか?何だって任せてくださいよ!気力十分です!今ならあのディーゼルたちの群れを強行突破しろって言われたって、きっとやり遂げて―――――――」

「……イザベルを置いて行こう。彼女を連れて行かなければ、まだ遠くまで行ける」

「え……」

 僕は言葉と表情を失った。一瞬、話の意味が理解できない。トードがはっと息を呑んだ。

 セージさんは書類を駅員さんたちに渡しながら言った。

「強行突破すると感づいたのはさすがだな。だからこそ、彼女は置いて行かなければならないんだ」

「そんな!僕が何のために、彼女も連れてきたと思っているんですか?」

 あまりに残酷な決断に、僕は思わず抗議の声を上げた。が、セージさんは手を挙げてそれを制し、辛そうな顔で言った。

「分かっている、お前の気持ちはよく分かる。だが現実と理想は違うんだ。前々から考えていたんだが、やはり石炭も十分に手に入らないこんな状況で、オートコーチ一台にブレーキ車を引いていくのは厳しすぎる。整備したって言ったって、お前もほんのメンテナンス程度しかできていないのは事実だ。私達も出来ることなら全員逃げ延びさせてやりたいさ、だが、お前が動けなかったら意味がない。お前が走れなくなったら、結局は彼女もトードも捕まってお陀仏だ」

 不覚にも僕は納得してしまった。それはその通りだ。だけど、心で割り切ることができない……。

 トードよりも長く、一緒に働いたイザベル。明るく爛漫な彼女は、初めて着任して不安だった僕を優しく励まして導いてくれた。彼女だって僕のかけがえの無いパートナーであることには変わりない。置いていくなんて……素直にはいと言えるわけがなかった。

 黙り込む僕に、シルバーさんも優しく言った。

「大丈夫、ここでならきっと彼女は幸せに暮らせるよ。彼らはみんな、鉄道に対して情熱と義侠心を持つ気高き者たちだ。イザベルをディーゼルどもに売り渡したりはしないだろう」

「……」

 イザベルが囁いた。

「行って、オリバー。私なら大丈夫。こんなにいい人たちに巡り合えたんだもの、きっと悪いようにはされないわ。……実はね、前々から覚悟は決めてたの。私は多分お荷物だって……。こんな過酷な状況じゃ、いつかどこかであなたと別れなきゃいけない時が来る、ってね。それを昨日こっそりセージさんから相談されてたの。彼も同じ意見だったから、承諾しちゃったわ」

「イザベル……」

 おそらく逃亡してから初めて口にされた、彼女の胸の内を聞いた。それでも、僕は受け入れられなくて、彼女につい詰め寄るような口調で答えてしまった。

「そんなの駄目だよ……僕はオートタンクじゃなくなっちゃう。1400クラスは常にペアで初めて成り立つんだろう⁉僕の価値が半分なくなるのと一緒だ――――」

「お願いオリバー、最後に私のわがままを聞いて!」

 もっと強いイザベルの叫びがそれを制した。今まで聞いたことがないぐらい、厳しくて、そして悲痛な声だった。

 イザベルは続けた。

「……あなたはもう私がいなくても大丈夫。それに、後ろはトードに任せなさい」

 いつも僕を導いてくれた、優しいけれど芯のある声だった。彼女はトードにも優しく言った。

「トード、これからは私の代わりに、あなたがオリバーを守るのよ。よろしくね」

「うん、分かったよ……イザベル」

 彼女の頼みに、トードが涙声で答える。

 そして彼女はクルー一人ひとりに、丁寧に別れの挨拶を送った。

「ブローズさん、シルバーさん、それにセージさん……今まで本当にありがとうございました。私はここに残ります。ただ、最後に一つ、やってほしいことがあるんです」

 彼女はそう言って、その願いを話した。

「この駅に蒸気機関車が逃げ込んだらしい」

「まさか本当に引っかかるとは……ここで張っていて正解だったな」

 暗闇の中で、嗅ぎまわるディーゼルたちがつぶやく。とうとう鉄道局に察せられたらしく、僕らを捕らえる気でひときわ大勢集まってきていた。

「どこに隠れた……?」

 猟犬が獲物を探るように、彼らは唸り声を上げながらあちこちを探す。

「あ!お、おい!お前ら!」

 その時、一台が声を上げた。

「あれを見ろ!GWRのオートコーチだ、奴の客車だ!あそこにいるぞ!全員かかれ!」

 彼らは待避線にいるイザベルに気がついた。一気に軍勢が彼女の方へ向かう。

 その瞬間、

「……なっ……」

 トードだけを連結し、僕は彼らの横を全速力で走り抜けた。ディーゼルたちはぽかんとして僕らを見送る。

「ど、どういうことだ!?あいつ――――」

「ファスケス!こいつ連結されてねぇ!一台っきりだ!」

 イザベルひとりなのに気づいたディーゼルが、リーダー格らしい一台に叫んだ。

「ちいぃっ……囮だったのか!くそっ!」

 リーダーは歯噛みし、それから彼らに命じる。

「急ぎ追跡だ!そいつは今はほっとけ!」

「「「了解」」」

 イザベルに気を取られていた彼らが、僕らに向かう気配がする。

 遠くなる小さな姿に向けて、僕らは胸の中で別れの言葉を送った。

(きっとだよ……!きっとまた必ず、会いに来るからね!それまで元気でいてくれ)

(イザベル……君も頑張って!ディーゼルどもに意地悪されても、負けないで)

 いつも側に居た優しい視線が、速度を上げるごとに、永遠とも思えるぐらいに引き離されていく。

「さよなら、みんな……無事を祈ってるわ」

 イザベルの悲しい祈りが、風に乗って届いたような気がしていた。

「やったぞ、上手くいったな!」

 駅から脱出し、ブローズさんが運転室で歓喜の声を上げる。

「イザベルのおかげだ。このまま突破して、本線に回帰できる――――」

 シルバーさんも安堵して言った、その時だった。

「!」

「そういうことだろうと思ったぜ……先回りしておいて正解だった」

 目の前に、数台のディーゼルが現れたのだ。どうやら事前に、何台かには作戦を読まれていたらしい。先頭の一台が大きなアームを振りかざして、僕を見て笑う。

「あんな子供だましで、我ら‟無煙化推進部隊”を撒けると思ったか?甘いなお前は」

 そして止まろうとした僕をそのまま握りつぶそうとした。

「――――死ね!」

 ――――ドガンッ!

「!?」

 いきなり爆発音がして土煙が上がり、アームを振りかざしたディーゼルは線路に沈みこんだ。

 藪の間で、さっと黒い人影が動いた。

 その様子を目に留めて、ブローズさんがつぶやく。

「フィッシャー――――」

「早く行って!」

 藪の中でフィッシャーさんが叫んだ。どうやら発雷信号を応用して、仕掛けた線路ごと爆破したらしい。脆くなった基盤はディーゼルの重量を支えるにはひ弱すぎ、彼はそのまま自重で穴へ落ちこんでしまった。

「ブローズ、そっちの線路!」

 シルバーさんが目ざとく複線を見つけた。急いでバックしてそっちへ向かう。

「逃がすか!」

 再び別のディーゼルに行く手を塞がれる。その時、僕の中で何かが切れた。

「どけぇぇーっ!」

 ――――ガシャァン!

「ぐふっ……!」

 自分でも思いもよらなかった怒鳴り声を上げ、僕は力いっぱいそのディーゼルに体当たりした。そのまま線路を押し戻し、別の待避線へ追いやる。

 目の前が空いた。一気に加速して開けた道へ飛び出す。

「野郎、逃げやがった!」

 後ろでディーゼルたちが喚く声がした。

「追え!早く追うんだ!何ぼさっとしてる!動けるものはさっさと奴を捕らえないか!」

 完全に出し抜かれたディーゼルたちは、怒り心頭だった。穴に落ちこんだアーム付きのディーゼルは仲間たちに喚く。しかし仲間も悔しそうに怒鳴った。

「無茶言うんじゃねえ!あんな小さい駅に転車台なんてあるか!バックじゃ絶対追いつかねえよ!それにあの信号手、他の線路まで潰しやがった……!」

 彼らの周りでは、まだフィッシャーが仕掛けたらしき手製の爆弾が次々と爆発している。じきに全員退路を断たれ、部隊はオリバーを追うどころか、動くことさえもできなくなってしまった。

「蒸機の味方か……時代遅れな奴めっ」

 ディーゼルたちは恨めしげに駅の方を睨んだ。

 一方、駅員たちは感慨深く言葉を交わしていた。

「これで心置きなくクビになれる。線路までぶっ壊したとなっちゃな」

 駅員の一人が、ちらりとフィッシャーを見やって言った。

「だってしょうがないじゃないですか。どうせ廃線なんだし、最後ぐらい好きに使っていいでしょ」

 フィッシャーはあくまで涼しい顔で言った。そして、煙の消えてゆく線路の彼方を見つめて、拳を握り締めた。

「頑張れ……生きろ!オリバー、トード!」

 無事逃げおおせた後の線路の上。朝焼けがオレンジに照らす中を、僕らはスピードを緩めて走っていた。

 少し歪んだレールを踏む音が、カタン、カタンとなんだか寂しげに響く。

「せっかく整備したのに、前よりひどく壊れちまったな」

 ブローズさんがつぶやいた。

 衝突の衝撃で、僕のバッファーは潰れて傷んでいた。ランプ棒が一本なくなっていたし、連結器も鎖がちぎれていた。

 だけどそれをどうこう思う気持ちは僕にはなかった。

「……いいんです。思い上がって、イザベルを失くした代償なんだ」

「……」

 さっきまではしゃいでいた自分が馬鹿みたいに思えた。高揚した気分はすっかり冷め、僕らはまだ厳しい旅の途中にいるのだという事実を身につまされた。久しぶりに信頼できる人に会えて、体調も良くなって、どこか甘く見ていた部分もあったのかもしれない。状況や僕の能力は、何一つ変わっていないのに……。

「そう気に病むな。悪いのはお前じゃない。問うべきは決断を下したこの私と、どこか冷たいこの世界だろう」

 セージさんは静かにそう言ってくれた。

「俺ら、この先どこへ向かうんだろうな」

 ふと、ブローズさんがつぶやいた。シルバーさんは憂うように続ける。

「さあな……最後の瞬間まで、生きて見届けるしかないな」

 朝靄の中へ、線路はどこまでも一本道に続いている。

 隠れ潜む時を告げる朝日が、残酷な程に白く透き通っていった。