それからも旅は長く続いた。雨の日も晴れの日も、それから雪の日も、嵐の日も、僕らはただひたすらに、ソドーという楽天地を目指して旅を続けていた。
いつしか昼間は廃線に隠れて休んで、人目の絶えた夜に走る、という一日が当たり前になり、必然的に昼夜逆転の生活になった。幾つも季節が巡ったが、それも何度目のことなのか、もうあまり意味をなさなくなっていた。僕らの日々の最優先課題は、とにかく今日一日、追跡に来ているらしいディーゼルに会わないで過ごすことだった。
クルーたちの方も大変な苦労を強いられていた。それでも彼らは、一言も弱音や僕らを見捨てる文句を口に出さなかった。
「俺はもう一生分のキャンプを経験したぜ」
「まったくです」
キャンプ用コンロでコーヒーを沸かしながら、ブローズさんがシルバーさんに言った。シルバーさんが笑って取り合う。セージさんはいつも僕の中で休んでいた。
過酷な日々ではあったが、そんなふうに、僕らは普通の列車とクルーよりも強く、絆を深めていったのだった。
***
――――一方その頃、ロンドンのターミナル駅密集地近くにある、とあるオフィス。
「監督官長、ご存じですか?妙な噂が立ってるんですよ」
若い紳士が、綺麗に磨かれた机に書類の束を差し出しながら言った。監督官長、と呼ばれたその相手は、面白くなさそうに一つ鼻息をついて、書類を受け取った。
「噂など、そんなものは大衆のくだらん憶測だ。勝手に言わせておけ」
冷たい威圧感のある声で言ったその男は、かつて……駅でオリバーを見つけて、連れて行けと命じたあの監督官であった。身なりは小ざっぱりと瀟洒に整えられているが、黄色い鋭い目と相まって荒々しい狼に見える。
ぶっきらぼうに返された若い監督官は、少し委縮気味に答えた。
「いえ、それが……もう残っていないはずの蒸気機関車が、夜中にそこらじゅうの支線を走ってるっていう噂で」
「何?」
黄色い瞳がわずか見開かれる。
「目撃者の証言から推察すると、GWR1400クラスらしいですがね」
監督官は続けた。しかし男は即座に否定する。
「まさか。あの領域にはもう1400クラスは残っていないぞ。他ならぬ私が全部引導を渡したのだ。取り逃していた1436ももう解体されたはずだ」
「はい……ですが」
その監督官はなおも言った。
「工場に送られる前日、1436番が操車場を出て行くのを見たという人がいるんです。それに乗っていたクルー……全員その日から行方不明らしいですよ」
「何だと?」
そこで監督官長も顔色を変えた。にわかに立ち上がり、傍にあった帽子と外套を取ってドアへ歩み出す。
「ついて来い」
「どこへ行かれるのですか――――」
「解体工場に確かめる」
彼は若い監督官にそう言うと、その足で解体工場へ向かい始めた。
「だから何度も言ってるでしょう!あいつはもうとっくにバラバラに解体したんですよ!ほら、ナンバープレートだって、この通り」
解体工場に着くとすぐに、工場長と監督官らの押し問答が始まった。他の監督官らも動員され、あちこち証拠を探すが何も見つからない。
返納される取り決めになっていたナンバープレートだけが、動かぬ証拠として残っていた。
若い監督官は疑問を顔に浮かべながらも、辺りを見回して監督官長に囁く。
「やはり予定通り解体されたのかもしれません、工場内には何もありませんし、物証があっては……」
「プレートは外そうと思えば外すことが出来る。ごまかすために置いて行ったのかもしれん」
監督官長は冷静だった。そしておもむろにめくっていた書類を閉じると、工員たちの方に向き直って、こう言った。
「なるほど、君達の言い分は分かった。それほどまでに間違いがないというなら、きちんと確かめさせてもらおう。こちらにも手がないわけでもない」
そして彼は手にした書類を見せた。
「これが何だか分かるか」
「書類?いや、そんなもの見覚えはない」
硬い顔の工場長は、一瞬いぶかしがりながらも否定した。監督官長は鼻で笑って続ける。
「まあなくて当然だろうな。これは、ここのスクラップを引き取ることになっている、鉄鋼会社の記録簿だ。59年の4月30日――――お前たちの主張する1436の解体日の分も確かに記録してある。奴は即日鉄鋼会社に引き取られたそうだな。となれば、こちらの記録と、そちらの記録簿に書かれている数値は一致していないとおかしいわけだ。言っている意味がお分かりかな」
「はっ……!」
工場長の顔が一転、凍りついた。隠していた事実に辿り着かれ、青ざめる。工員たちもにわかにうろたえ始めた。
監督官長は続けた。
「一致していればこちらの非だ。素直に謝罪しよう。……さあ、そちらの記録簿を見せてもらおうか」
工員たちは抵抗しようとしたが逆らえるわけもなく、記録簿は引き出されて監督官長に照らし合わされた。
「やはりだ。記載された量と比べて、実際に鉄鋼会社に引き渡された量が足りん。ちょうど小型タンク機関車一台分ぐらいな。これはどういうことだ」
「っ……その……」
工場長は言葉に詰まった。
「書類の改竄は我々の裁くところではないが、重大な違反を犯してくれたようだな」
監督官長は冷たい声で皮肉に言った。それから急に表情を変え、隠しきれない憎悪が滲む顔で、憎々しげに彼らを睨んだ。
「……貴様ら、こんなことをして、ただで済むと思うなよ。処分は後々言い渡すとしよう」
「くっ……」
「悪魔め!地獄に落ちろ!」
工員の一人が罵った。しかし監督官長は平然とした顔で、逆になぜそんなことを言われるのか分からない、といった体で彼らを見た。
「なぜそこまで責められなければならんのだ?不要になった道具を始末するだけなのに。あまつさえその後を最新式の技術で置き換えてやるのだから、むしろ私は感謝されてもいいぐらいなのだが」
「てめぇ……!」
無粋な言葉に、工員たちはいきり立った。
「あの子達を何だと思ってるんだ。あなた方には彼らの叫びが聞こえないのか!」
「何のことだ?」
監督官長は平然と言い、それから大きな声で、部下たちに命じた。
「ハルバートとファスケスを呼べ!彼らだけじゃない、推進部隊の手の空いているディーゼル機関車は全部だ。英国全土をしらみつぶしに探して、逃亡車の1436を捕らえさせる」
「やめろ!そんなことは――――」
「蒸気機関車の時代は終わったのだ」
監督官長は冷たく言い放った。
工場の奥の方で、今日も蒸気機関車が解体される音がする。青白い炎を放つガスバーナーで、煙突を切られ、ボイラーをはがされ、やがて機関車の形も崩してただの鉄の塊になった。
悲鳴のような音が聞こえた気がしたが、それがどれだけの人の耳に届いたかどうかも分からない。
「輝かしい朝の後には、必ず暗く冷たい夜が来る……革新的な機械でも、人の命でも、同じことだ」
バーナーから弾ける火花の閃光を背にして、監督官長はつぶやいた。