僕は死ぬことを考えなくなった。今は出来るだけ長くこの鉄道で働いて、ふたりの記憶を留めることこそが僕の役目だと、そう思えるようになった。
けれども日を追うにつれて、僕らの仲間は一台、また一台と少なくなり、がらんとした操車場にはやがてディーゼル機関車が次々と現れ始めた。ピカピカで‟最新式”の彼らは僕を見て嘲笑った。時代遅れだ、憐れなじいさんだな、もうまともにペンキも塗ってもらえてないじゃないか、と。
僕はそれでも一生懸命働いた。だけど、とうとう……恐れていた知らせがやってきた。
「1436をリタイアさせる」
そう、一言だけ言って鉄道の偉い人が現れた時のこと……その時の気持ちは、ちょっと言葉では言い表せない。
ブローズさんやシルバーさんたちが言い争っているのを眺めながら、僕は無力感を噛みしめていた。
(今度は僕の番か……)
機関庫どころか錆びついた待避線に押し込まれながら、悲しさと悔しさを抱えて心の中でふたりに詫びた。結局、結果は何ひとつ、変わらなかった。誰にともなく皮肉な笑みがこぼれた。
――――やっぱり駄目だったよ。僕じゃ、蒸気機関車の運命は変えられない……。
ディーゼルなんかに負けないんだって証明してやれない。オーガスタスやパメラの思い出を生かしておくこともできない。何もかも失敗だった。僕は出来損ないだ……。
暗い思いだけが、自分の中でずっと渦巻いていた。
「参ったよ、上層部の石頭め。もうどうやっても蒸気機関車を撤廃するつもりだ」
セージさんが頭を掻きながら待避線にやってきた。顔に皺が浮かんで、まるでたった一日ですごく歳を取ってしまったみたいに見える。ブローズさんとシルバーさんも難しい顔で眉をひそめる。
「このままだとオリバーは本当にスクラップになってしまう」
「どうにかして静態でもいいから保存できませんか?引き取ってくれそうなところは……」
シルバーさんがそう言ったが、セージさんは首を振った。
「そんなすぐには見つからんよ。機関車の保存にはものすごく金が掛かる。この不景気に、そんなおいそれと出してくれるところなど、早々ないよ」
「ブルーベルは……」
彼はそれも否定した。
「あそこはまだ計画が上がり始めたばかりだ。本当にできるのか保証がない。……懸けてみる価値はあるが」
そこまで言うともう誰も後の言葉を継げなくなり、セージさんは諦めたように、大きなため息をついて僕に寄り掛かった。
「参った。二十年以上真面目に働いたお前に、最後にしてやれることがこんなことだけだとは」
「そんなこと、言わないでください……」
僕はそんな彼の様子に申し訳なくなって、慰めの言葉を掛けた。
セージさんはまたため息をついて続けた。
「……人間は残酷だ」
諦めと静かな怒りをにじませて、彼はつぶやいた。
「虐げあって、声なきものの声など聞こうとしない。最初から聞こえないと決めつけて、何も知らないふりをしているんだ。結局、お前たちにもその原罪を負わせてしまったことは……紛れもない私達の罪だ」
ブローズさんとシルバーさんは怒っている。
「時代の流れに合わないから見た目が良くないからって、ひどいですよ」
シルバーさんが言った。ブローズさんもうなずいてさらに続ける。
「隣のソドー島では、まだ蒸気機関車が現役で走ってるって言うけどなぁ……」
――――ソドー。その話は聞いたことがある。僕は古い又聞きの噂を思い出して、ふと悲しむことを忘れた。橋でつながっているほどすぐ隣の島だが、そこはまるで本土とは別世界だという。未だ隅々にまで鉄道が張り巡らされ、古い車両たちが働く、蒸気機関車の天国…………。
「そうだ……ソドーに逃げよう」
「は?」
僕の言葉に、ブローズさんもシルバーさんも、セージさんも怪訝な顔をした。でも僕はたった一つの希望を見つけたように、大きな声で三人にきっぱりと告げた。
「逃げましょう!黙ってたって壊されるなら、途中でバラバラにされるかもしれなくても、一縷の望みをかけてソドー島に逃れた方がいい。僕はまだ動けるんだ」
僕はまだ諦めたくない。そうだ、諦めたらいけないんだ。僕は最後まで生きるって、GWR1400クラスの記憶を残すって、ふたりに誓ったんだ。
どうやら冗談でないと知って、三人はにわかにざわつきはじめた。
「本気かお前?ソドーまでどれだけ離れていると……」
ブローズさんがいぶかしげに尋ねたが、僕はきっぱり彼に言い放った。
「でもやるしか、もうそれしか方法はないんですよ。誰も何もしてくれないなら、僕は自分で未来を勝ち取らなくちゃ。そうでしょう?」
その言葉に、三人も心を動かされたようだった。張りつめた表情を解き、腹を決めたような笑みを浮かべる。
「……そうだな」
セージさんは深くうなずいた。
「なんてこった。機関車に人生の極意を教わるなんてな」
「ああ、オリバーはお前なんかより出来がいいからな」
「えっ、何ですかそれ、セージさん」
ブローズさんは冗談めいたことを言ったが、すかさずセージさんに突っ込まれてうろたえていた。それを見て僕は久しぶりに心から笑う。二人も笑った。
「よし、行こう!俺たちの栄光ある反逆が始まるんだ」
シルバーさんが勇ましく言った。夕闇の待避線で僕らは拳を上げ、汽笛を鳴らした。
僕が連れて行かれるまで、幸いまだ少し時間があった。その間に急いで計画を練った。セージさんがコースを定め、片っ端からその区域の信号手と駅員と元蒸気機関車のクルーに連絡を取ってくれた。ありがたいことに、彼らは快く協力してくれるらしい。誰も通っていない線路を通して、ソドーへ逃れる一大逃走計画が出来上がった。
幸い、計画は実行のその時まで誰にもばれなかった。僕を整備しているのもペンキを塗り直しているのも、最後にせめて華を持たせてやるつもりなんだろう、と解釈されたようだ。
そしてついに、運命の日――――僕が工場に引き渡される前日、がやってきた。
明朝8時までには僕をそこの待避線から出しておくように、と新しい駅長さんは言った。明日の朝一で、工場から僕を迎えに来るからと。ブローズさんははいはい分かりましたよと頷いて、彼が行ってしまった後でにやりと笑みを浮かべて言った。
「……だってさ。そういうことだから今晩のうちに、頼まれた仕事をやってしまおうぜ」
日が落ちてから、僕らは大急ぎで旅立ちの準備を始めた。
「長い旅になるぞ。覚悟はいいのか?」
石炭と水を出来る限りいっぱいに積み込みながら、セージさんが僕らに言った。
「はい」
「おうともよ!」
ブローズさんとシルバーさんがめいめいに返事を返す。
「行きます。どんなことがあっても」
僕は真っすぐに彼を見て、力を込めて言った。セージさんは満足げに、僕を見つめてただうなずいた。
僕たちは周りをよく確認し、人がいないことを確かめた。もう、二度と帰ることもない駅――――今は誰も眠っている。ディーゼル機関車たちも、怯えて身を寄せ合う残された蒸気機関車も。
誰にも見られていないことを確かめてから、僕は滑らかに動き出した。月が銀色に線路を照らし、ピストンが静かな音を立てる。僕らの長い命懸けの逃避行が始まった。
やがて調子が付き、僕は滑るように月夜の線路を移動した。
「ブローズさん、シルバーさん、セージさん……出発の前に一つ、お願いがあるんです。聞いてくれますか?」
無言のままの彼らに、僕は話しかけた。ブローズさんとシルバーさんは一瞬、怪訝そうにしたが、その内容を話すと快く承諾してくれた。
*
オリバーさんを解体するのと同時に、僕らも処分されることが決まっていた。古いブレーキ車と、ペアの機関車をなくしたオートコーチなんていらないからって。
イザベルはずっと泣いていた。僕は、何だか泣きたいというより悲しみが大きすぎて、どこか自分のものじゃないような気がして不思議と冷静だった。
何のとりとめもなく、この鉄道での日々を思い返していた。僕が作られたのはもう百年近くも前のことだが、新品だったその頃よりも、この二十年余りの年月の方がずっと色鮮やかで、幸せだったと思えるのだった。
出来たての彼と出会ってから、もう二十四年にもなるのか。いや、まだ二十四年と言うべきか。ともかく彼と出会って初めて、僕は鉄道での仕事の本当の楽しさを知った気がする。だからこそ、今こんなにも悲しい。
楽しかったけれど、いよいよ終わりなんだなあ……。
永遠に続いてほしいとも思ったけれど、仕方がない。僕らはただの物で、人間の道具なのだ。必要なくなったものは存在する意味がない。……それがたとえ喋っても、意思を持っていても。
壊される時ってやっぱり痛いのかな。そんなことを考えた時だった。
「トード!イザベル!」
「!?」
聞き慣れた声がして、僕はびっくりして目を見張った。
目の前の線路の上に、オリバーさんがいた。蒸気を吹き、塗りたての緑のボディを月の光にきらめかせて。明日連れて行かれるはずなのに、ぴかぴかの新品のようで、やる気十分に今にも出発できますという体で佇んでいる。
状況が理解できず言葉を失くす僕らに、彼は優しい、でもはっきりした声で告げた。
「これから僕らと一緒にソドーに逃げよう!ついて来てくれるね?」
思いもかけない言葉に、僕は思考を全部吹っ飛ばして呆然となった。
に、げ、る?
一緒に?
どこ……ソドーだって?隣の島じゃないか。しかもここからはずっとずっと遠い。
明日死出の旅につくというのに、このひとはいったい何を言っているのだろうか。
脈絡のばらばらな言葉が、一気に頭の中を駆け巡った。
僕らが状況を飲み込めずぽかんとしていると、ブローズさんとシルバーさんが言った。
「オリバーのたっての願いだ……。お前たちも一緒に生き延びさせたいんだとさ」
「ここから出て、ソドー島に逃れるんだ。ソドーなら蒸機がまだ現役でいられる。ブレーキ車もオートコーチもきっと歓迎されるだろう」
彼の計画を知り、僕は驚愕と同時に、いつも通りの冷めた批判を抱いた。
馬鹿ですね……僕を連れていったって、足手まといにしかならないのに……。
無煙化が進行してきた今、途中で援助を得られる保証はない。石炭も水もいつも十分にあるとは限らない。それどころか見つけた誰かが告発するかもしれない。その時あなたは逃げられるんですか?ひとりならまだしも……ブレーキ車に客車一台を引いて、そんなに早く逃げられるわけがない。燃料だって、重い分余計にかかる。あなたの体への負担も、同様だ。
馬鹿じゃないんですか?なぜ九割方負けると分かっている賭けに、余計なハンディキャップまで付けようとするのですか……?この二十四年間僕は何を教えてきたんですか、もっと学んでくださいよ、僕の気持ちも、汲んでくださいよ…………あなただけなら、生き残れるじゃないですか。
そう、代わりがいるブレーキ車のことなんて、遠慮なく捨てていけばいいんです。お願い、もう僕のことは忘れてしまって……。
駆け巡る皮肉めいた言葉とは裏腹に、次の瞬間、僕は胸の奥から熱く込み上げる思いを口に出していた。
「一緒に行きます。連れて行ってください」
「私も!」
イザベルも涙を止めて答えた。オリバーさんはにっこり頷いた。
「よしきた」
セージさんが急いで僕らを連結し、そして、夜の操車場を忍び足で脱出した。
*
駅の入り口で、カンテラを持った人が立っていた。
一瞬、ぎょっとしたが、それが見知った人の顔であることに気づいて安心した。
「トワイニングさん」
「やはり、行くのかね……」
足を止めて話しかけると、彼はそうとだけ、寂しそうにつぶやいた。
僕はうなずいて、彼にはっきりと語った。
「僕が生き延びることが、僕がこの鉄道にできる最後の抵抗だから。それに、もう負けたりしないって、オーガスタスとパメラとの約束だし」
「そうか、それはいい決断をした。お前は強くなったな」
トワイニングさんはそう言って、そして、ふと顔を隠すように帽子を下げた。
「さようなら、トワイニングさん。今まで本当にありがとう。どうかお元気で」
僕は泣きそうになりながら、彼に最後のお別れの言葉を送った。トワイニングさんも、何度もうなずく。
「ああ……お前たちも、向こうで上手くやるんだぞ」
そして彼は本線へ通じるポイントを切り替えてくれた。皮肉なことだが、ここに来て僕は初めて、本線を走ることになった。自分にはどうやっても手に入らないと思っていた栄誉が、こんな場面で手に入るなんて……まったく神様は粋なのか、それともどうしようもなく意地悪なのか。
ゆっくりと、しかしためらわずにそこへ踏み出す。だんだん小さくなるトワイニングさんが、手を振って大声で叫んだ。
「無事を信じてるぞ!必ず逃げ切るんだ。ディーゼルなんかにまだまだ負けないんだってことを、お前達を放りだした奴らに思い知らせてやれ」
「はい!」
僕も力強く返事を返した。
クルー三名も手を振り、帽子を振り、叫ぶ。イザベルとトードも口々に叫んだ。
「トワイニングさーん、さようなら!」
「さようならー!」
さようなら、僕たちの大西部鉄道。