第三幕 そして、脱出へ
こうして、僕はひとりぼっちになってしまった。
パメラの一件の後、僕の仕事はますます減った。
広くなった機関庫に、ぽつんと残され、ただディーゼルたちが走っているのを眺めるだけになった。
だけどもうそれを悔しいとも思わない。僕はただ、寂しかった。そしてパメラに申し訳なくて、もうどうしようもない胸の痛みを抱えて過ごしていた。
*
オーガスタスさんに続いて、パメラさんもいなくなった。
その日の宵に何が起こったか、僕は後になってセージさんから聞かされた。本当に……こんなことがあっていいのかと思えるぐらい、悲惨な出来事だった。つくづくあの時側に自分がいたら、もっと早く知らせられたのに、と思ったけど、仮に彼が追いついたとして、本当に彼らがパメラさんを救出できたかどうかは、定かではない。
声を掛けようとしたとき、ごめん、ひとりにさせてと一言だけつぶやかれて、僕は押し黙った。
それから彼はしばらく姿を見せなかった。噂では、彼よりずっと牽引力の強いディーゼル機関車が増えたので、彼が貨車を牽く必要————すなわち、彼が僕を使う必要はもうなくなったとか。
構内の貨車や客車の入れ替えだけが、彼の数少ない仕事になっていた。近くに来た時は、よく、ふたりで顔を合わせてなるたけ明るい話をした。
オリバーさんは僕には笑顔を見せてくれた。だけど、会話の途中で言葉が途切れると、ふっと涙を浮かべることもあった。‟肉親”を失った精神的なショックは、一晩そこらで癒えるものじゃなかったのだろう。
長い涙の時が過ぎた後、彼はさらに喋らなくなったし、動くこともなくなった。
状況は急速に悪くなりつつあった。
仕事がなくなったのもあるだろうが、それよりも彼に覇気がなくなったのが心配だった。スクラップにされるまでも無く、彼自身が……壊れ始めている。
ある晩、僕はとある人を呼んで、彼のためにあることをしてくれないかと頼んだ。
*
悲しい……ひとりがこんなにも寂しいなんて、思ってもみなかった。
パメラを失ってから一週間も経っただろうか。僕は一日の大半を、機関庫に閉じこもって過ごすようになった。
僕の仕事はもう操車場での入れ替えだけだ。昔なら仮にも旅客用なのにこれだけなんて、と不満に思っただろうが、そんなこともどうでもよかった。
今はこの仕事さえもやる気にならない。イザベルとも長いこと顔を合わせていない。
連れ去られた直後、助手のエドさんに言われた言葉が今も突き刺さっていた。
「なんで……お前が残ったんだ」
涙の流れる目で僕を睨みつけて、絞り出すように彼はつぶやいた。
「あの子は若かったのに……優秀だったのに…………パメラが死ぬのは、お前のせいだ!お前が余計なことさえ言わなければ……連れて行かれるのはお前だけで済んだんだ!」
すぐさまラミーロさんやブローズさんたちが、卑怯な物言いはやめろととりなしてくれたが、僕はまったくその通りだと思った。
僕のお節介が、逆に彼女の死期を早めてしまった。悔やんでも悔やみきれない。どう償っても間に合わないほどの罪を犯してしまった。隣に誰もいない機関庫で、僕は声を殺して泣いた。
これからはずっとひとりで生きなければならない。希望も夢もない、つまらない色褪せた一生を、ひとりで……。けどそれはきっと僕に与えられた罰だろう。いつもの通り、軽いはずみで、大事な兄妹を殺してしまった、愚かな僕への罰。
あるいは、僕も壊されてしまえば、またふたりに会えるかな?死後の世界についてはよく知らないけれど、人ではない僕らも招かれるのなら、きっと、ふたりはそこにいる……。
――――そうだよ。本当はやっぱり走りたいんだ。ディーゼルのお膳立てにも飽きたしな。‟天国”や‟死”については僕にはまだよく分からないけど、きっとここより悪い所じゃないだろう……。
頭の中でもうひとりの自分がつぶやいた。
その時誰かの足音が聞こえてきた。
ずっと伏せていた目を上げると、そこには見知った、でも懐かしい顔がいた。
「トワイニングさん!」
「久しぶりだな。オリバー」
老整備士は帽子をちょっと上げて挨拶した。
それはかつて僕が散々世話になった、整備士のトワイニング氏だった。ここへ引っ越してからはそれきりになっていたが、彼は皺が少し増えたぐらいで、元気そうだった。
「どうしてここに?」
はやる気持ちを抑えて、僕は彼に尋ねた。すると彼はどこか寂しげに笑いながら、まばらになった銀髪を掻いて、こう言った。
「私も異動だよ。蒸機の保守整備をやれる人間ももうあまりいないのでな。ところでしばらく会わなかったが、元気かい」
「……あまり」
僕は正直に答えた。トワイニングさんはそんな僕の様子を見定めるように首をひねり、おもむろにこう言った。
「馬鹿なことを考えとるんじゃないだろうね」
「えっ、そんなことは」
いきなりそんなことを言われ、僕は慌てて否定する。だけどトワイニングさんは厳しい口調で言った。
「とぼけるんじゃない。そんな嘘が私の目に通用すると思っているのか?これでも五十年真面目に整備士をやってきたんだ、部品一つでやる気があるかどうかすぐに分かる」
彼は鋭い声で僕の心の内を指摘した後、ふいに悲しげな顔に戻って、こう言った。
「一部始終をブローズ達から聞いたよ。確かに残念だったな……」
僕はさっきまでの気持ちを思い出して語りだした。
「あの時、素直にパメラの言うことを聞いておけばよかった……彼女の仕事まで引き受けなければ、もっと早く戻ってきて、間違いに気づけたかもしれないのに…………パメラが壊されるのは、僕のせいだ。僕は、なんて取り返しのつかないことを……」
言っているうちに余計に悲しくなって、僕は言いながらぽろぽろと涙をこぼしてしまった。最後の方はもう声が詰まってそれ以上言えなかった。子供みたいに泣く僕の様子を、トワイニングさんは黙って見つめ、それから静かにこう言った。
「気持ちは分かる。お前にまったく非がなかったわけでもないが、そう自分を責めるな。第一その通りにやっていたならば、お前が今頃は解体工場行きだったはずだ」
それはそうかもしれない。彼らは僕を連れて行くつもりだったのだから。
「……でも、だからこそ、僕が妹を犠牲にして生き延びたみたいで。オーガスタスがいないんだから、僕が彼女を守らなくちゃいけなかったのに……それも悔しいんです。彼女に申し訳ないんです」
僕がずっと抑えてきた胸の内を語ると、トワイニングさんは首を振った。
「パメラはきっとお前を恨んではいないよ。お前が彼女を守るために、自分に出来る限りのことを尽くしたことは十分分かっている。むしろ感謝していると思うよ。今度のことは……ただ不運が重なっただけだ。ラミーロとエドがどっちかでも残っていれば、あそこで抵抗する術もあった。そもそも蒸機をなくすなどという決定が無ければ、お前達も私達も、こんな思いをしなくて済んだんだ」
パメラは恨んではいない、という言葉に、そんなの分かるわけないと思いながらも、少しだけ気持ちが楽になるのを感じていた。彼は真っすぐに僕を見て、優しい、けれど真剣な様子で語りかけた。
「……なあ、お前はそういう神様とか信仰とかには無縁かもしれんがね、この世に意味のない物事なんてないよ。お前が仕事を代わってパメラの代わりに生き延びたことも、お前自身も、そして蒸気機関車自体も、意味がないなんてことがあるはずない。分かるな?」
「え、ええ……」
トワイニングさんは続けた。
「申し訳なく思うなら、しゃにむに働いて目に物見せてやれ。蒸気機関車もまだまだやれるんだってことを見せつけてやれば、上の気も変わるかもしれん。どうせ死ぬつもりだったんなら、死ぬ気になるのは簡単だろう」
「本当ですね」
僕はそう答えた。本当に……死ぬ覚悟まで決めたのだから、この先もう何があっても怖くはない。どんなにきつい仕事だってやれる。
なんとなく、明日も頑張る希望が湧いてきた。
トワイニングさんはそんな僕の様子を見て、満足げに笑った。そのまま出て行こうとしたが途中でふと足を止めた。
「ああ、あと、それから」
振り返った彼は、僕を見てこう言った。
「お前にはまだお前を頼り、守ってくれる奴らがいることを忘れるな」
「……はい」
言われて返事をしたものの、その時ははっきりと言葉の意味を理解できなかった。彼はそのまま行ってしまい、僕はひとりでその意味を考えた。
僕を頼り、守ってくれる人?ああ、ブローズさんやシルバーさんたちか。確かに僕がいなくなれば彼らの仕事も無くなるな……そこまで思った時、機関庫にまた別の誰かが現れた。
「おう、いたか、古蒸機」
無礼な口をきくディーゼル達だった。僕も硬い表情を取り戻して冷たく言う。
「何の用だ」
不機嫌に返すと、そのディーゼルは面白くなさそうに眉をひそめ、それからぶっきらぼうにこう言った。
「これはお前の私物だろう?邪魔になるから一緒にそこに押し込んどけ。どうせ使う奴もいないだろうしな」
「私物?」
そう言われて何のことかと首を傾げていると、茶色と灰色の四角い影が現れた。そして現れるが早いか、口を開いた。
「オリバーさん!」
「オリバー!」
「トード!それにイザベル!」
僕は驚いて、ふたりに向けて叫んだ。イザベルは目に涙を浮かべ、安堵したように僕を見つめてこう言った。
「心配したのよ、落ちこんでるって……よかった、まだいてくれて、よかった」
しばらく放置も同然にしていた彼女が、自分のことのように泣いているのを見て、不覚にもまたもらい泣きしてしまった。
「ごめん、本当にごめんよ、イザベル……」
それから僕は黙っている灰色の影の方を見て、こう言った。
「トード……全部君の仕業だね?…………ありがとう」
「……間に合ってよかった」
トードは潤んだ目で僕を見て、微笑んだ。
僕らに抱き合う腕があったなら、きっとその時お互いを抱き締めていつまでも泣いたと思う。
明日をも知れず、希望など微塵も待ち受けていない日々の底で、僕らはその時だけはとても前向きな気持ちで、何度もお互いの無事を確かめ合った。