日々、只、善き哉。 第0話
Saga of the Western Engines 後編 ~脱出、その1~ - 3/15

第二幕 引き裂かれる絆

 オーガスタスさんがいなくなって、ややもしたころだっただろうか。

 その頃僕はもうほとんど使われなくなって、一日中貨車置き場に留め置かれていることが多くなっていた。

 何もしないでいるのは想像以上に辛かった。なんだか自分が役に立っていないような気がして。

 仕方がないので、時々様子を見に来るオリバーさんと他愛ない話をした。オリバーさんはまだ僕よりは出番があったけれど、それでも昔のように毎日忙しく走り回っている、なんてことはなくなっていた。僕らを取り巻く世界の流れが変わりつつあることを、お互い口には出さなかったけれども、日ごと身を持って思い知らされた。

 悲しかったが、彼と話す時だけは気が紛れた。大事なお兄さんがいなくなってから、さすがにしばらくはふさぎ込んでいたみたいだけれど、まだパメラさんもいるし、オリバーさんは将来に対して、僕よりは希望を持っていたようだった。

 けれど状況はめまぐるしく変わり続けていた。

 ある日、僕らの支線は閉鎖されることになった。鉄道の近代化を推し進めるため、大規模な路線改変と機関車の整理を行うという名目だった。同時に僕らも別の駅への引っ越しが決まった。

 逆らう余地も術もあるわけがなかった。

 僕らは揃って新しい仕事場へ運ばれ、だけどそこでもまた、無為な時間と虚しさを味わうことになったのだった。

***

「ご無沙汰しております、監督官……近代化は順調に進んでおりますが」

 ある日の午後、ロンドンからやや離れたとある駅の舎内を、一人の駅員としかつめらしい身なりの男が歩いていた。

「戯言はいい、さっさと操車場へ案内しろ」

 やたら早足で歩きながら、男はちらりとも駅員を振り返らずにきっぱりと言った。そのただならぬ威圧感と冷徹さに、駅員はびくりとして背筋を正す。

「は、はい、すみません」

 二人は操車場へやってきた。線路の端に立ち、男は操車場を見回す。

 すでに辺りは直線的なデザインで象られたディーゼル機関車ばかりになっていた。黒煙と唸り声が場内を埋め尽くしている。

 男はぐるりと場内に目を巡らせた後、満足したようにわずかにうなずいた。

「まあそれなりに進んではいるようだな」

「おっしゃる通りです」

 駅員はへつらった笑みを浮かべる。

 そのとき、彼らの後方から何かがガシュン、ガシュンと走ってくるのが聞こえた。

 蒸気の吹き出す音に、二人がほぼ同時に振り返る。その横を、空っぽの貨車を押しながら緑の蒸気機関車が一台、通り過ぎて行った。

 煤けた「1436」のプレートを付けた彼は、明らかに不本意な仕事に憂鬱な顔をしながらも、黙々と働いている。ペンキは錆と雑な塗りのせいでまだらで、時々ディーゼル機関車の機関士からのろまだと野次を飛ばされたりしている。それにブローズがいちいち取り合っているのを、シルバーがたしなめる声も聞こえた。

「まだ蒸気機関車がいるのか」

 男は貨車の入れ替えをしているオリバーを見て目を細めた。

「はっ、何しろ急なことで、まだディーゼル機関車を受け入れない住民も多くいまして。蒸気機関車のクルーたちや古参のスタッフからの執拗な抗議もあって、廃車が遅れているんです」

 駅員はさっと背筋を正して緊張気味に答える。

 その男はしばらくオリバーを睨みつけていたが、やがて目を逸らし、きびすを返しざま、こう言い放った。

「……あいつを連れて行け」

「は、はっ!」

 駅員は敬礼して彼を見送った。

***

 それは朝から冷たく雨の降る日だった。

「パメラ、どうしたの?」

 その日朝早くからずっと操車場にいる彼女を見つけて、僕は尋ねた。なんだか様子がおかしい。パメラは一瞬悲しそうな顔で僕を見たが、すぐに目を逸らして下を向いてしまった。

「……もしかして、具合が悪いんですか?」

 僕の後ろでトードが言った。パメラは少し言い淀んだけれど、すぐに囁き声でこう言った。

「ええ、ちょっと」

 僕らはふたりとも眉をひそめた。

「朝から蒸気が上がらないんだよ。きっとボイラーかどこかの故障だと思うが」

 あちこちを見て回っている助手のエドさんが、首をひねりながら言った。機関士のラミーロさんも心配そうに点検を繰り返している。

「具合が悪いなら、正直に悪いって言いなよ」

 僕はうつむいているパメラに忠言した。けど、パメラはうつむいたまま、ため息交じりに心配そうな顔で言った。

「でも、走れないって分かったら、役立たずって思われて、処分されてしまうもの……そんなことになったら……」

 僕は彼女の怯えた顔を見て、押し黙った。彼女はスクラップにされるのを恐れているのだった。正直、一度の故障ですぐさま処刑台送りとは考えにくいが、状況が僕らの方に不利になった今、彼女の心配も現実にならないとは言えない。

 不安がる彼女を慰めようとしたその時、僕はいいアイデアを思い付いた。

「そうだ!じゃあ僕が君の分の仕事を引き受けてあげるよ」

「えっ?」

 唐突に僕が明るい声を上げたので、パメラも機関士さんたちも怪訝そうな顔をした。

 パメラはすぐに悲しそうな顔に戻って僕に言う。

「オリバー……でも、そんなの無理よ……。あなただってこれから仕事があるんだし、それにスザンナを牽いてるのが私じゃないってすぐに分かってしまうわ」

 だけど僕はつとめて明るく、彼女にこう言った。

「内緒にしてれば大丈夫さ、僕ら兄妹だもの。ナンバープレートを見なけりゃ、どっちがどっちだかすぐには分からないよ。特に偉い人にはね」

 オーガスタスがいない今、僕が彼女を守らなければならない。彼女にはもう僕しか頼る兄弟はいないのだ。パメラが壊されないためなら、何でもする――――そういう思いがあったから、僕は内心必死だった。

「本当にいいのか?君達?」

 ラミーロさんも眉根を寄せて僕らに言った。ブローズさんは運転席から身を乗り出して、いつものように飄々と言った。

「まあ黙ってりゃ大丈夫っしょ。仕事が一つ増えるも、二つ増えるも一緒だし。残り少ない蒸機の仲間ですからね、こういうときこそ助け合わないと」

「そういうこと。じゃ、行ってくるね」

僕もそう言って出て行こうとした時、急にパメラが大きな声で叫んだ。

「行かないで!お願い」

 僕は足を止めた。

「……パメラ、なんで……」

 ただならぬ彼女の様子に、僕は尋ね返した。

 パメラは一つ息を呑み、小さな声で語り始めた。

「……嫌な予感がするの。このまま出て行ったら、二度とあなたに会えないような、そんな予感が…………ああお願い、怖いの……オリバー、行かないで。側にいて」

 最後の方は泣き出しそうな、震えた悲鳴になった。今まで見せたことがないほどの怯えた素振りに僕も不安になったが、それを押し切って優しく彼女を諭した。

「そんなわけにはいかないよ……命令に従わなくちゃ、それこそスクラップにされちゃうよ。大丈夫、必ず戻ってくるから」

「……本当に?」

 パメラはすがるように僕を見てつぶやく。僕は笑顔で返した。

「うん。じゃあ、行ってくるよ。いい子で待っててね、パミー」

 そういうと彼女はようやく、一つうなずいて僕を見送った。

「お大事に」

 トードが彼女に告げた。

 彼女のクルー二人は手を振り、いつまでも僕らを見送っていた。

 *

 オリバー達が行ってしまった後も、パメラは不安げに線路の向こうを見つめていた。

(何なのかしら……体の奥の方がざわざわする……。具合が悪いせいだけじゃない、何か、悪いことが起こりそうで、胸が苦しいんだわ)

 彼女は機関庫の中で、雨に煙る操車場をずっと眺めていた。分厚い雲と雨のカーテンが空を覆い、まるで夜のように暗い。このエリアは彼女らのように、ほとんど使われていないものたちが押し込まれているところなので、人も機関車もまばらで閑散としていた。

 ラミーロとエドも整備を頼みに行って、いない。彼女は今完全にひとりきりだった。

 ひとりぼっちだと余計に心細い。

 パメラは胸のざわつきを抱えつつ、具合の悪さに耐えられずにうとうとした。

 それからどれだけの時間が経っただろうか。突然誰かがやって来る気配がして、彼女ははっと目を覚まし、嬉しそうに言った。

「!……オリバー!よかった戻ってきてくれ――――」

「こいつか、処分予定の奴は」

「…………ぁ……!」

 その声も姿も、立てる音も、見知った兄のものではないと気付いた時にはもう遅かった。よしんば分かっていたとして、彼女に何が出来ただろう。

 ひとりぼっちの彼女はただ震えながら、目の前に現れた二台のディーゼルを見つめるしかなかった。

「さーて、かわい子ちゃん、あんたはそろそろお休みの時間だよ。俺らがちゃーんと、しかるべき場所まで連れてってあげるから」

 ディーゼル機関車の一方が、口元だけに下卑た笑みを浮かべてパメラに言った。パメラはもうがたがた震えて、それでも必死で抵抗の声を上げた。

「嫌!怖い……お願い、出て行って!」

 ひどく怯える彼女を見て、ディーゼルたちもつと首を傾げた。彼らは蒸気機関車のことを、その個々の性格を見分けられるほど深く知っているわけではなかったが、何かしら違和感を覚えたのだろう。

「おい、本当にこいつか?なんか違うような気がするが。だいたい、男だって聞いてたんだけどね、俺は」

 先程のディーゼルが傍らのもう一台に囁いた。しかしもう一台は怪訝そうな顔をしながらも、パメラを見やってこう言った。

「でも機関庫にいる1400クラスを連れて行けという命令だぜ。こいつで合ってるじゃねえか」

「ま、蒸気機関車を減らせってことなんだから、どれだって一緒か!」

 彼らはそう言って甲高い声で笑った。パメラはそんな様子も目に入らぬまま、ただ、震える唇でこう呼び続けていた。

「やだ……やだ……死にたくない……助けて…………オリバー……」

 彼女の抵抗も虚しく、無情な手がいくつもその身に迫ってきた。

 パメラを荷台に乗せると、ディーゼルたちはすぐさま解体工場へ向けて走り出した。うるさい音を立てて駆け抜けていく彼らを見て、蒸気機関車たちは怯えて道を空け、またあるものは気の毒そうに、荷台の上の彼女を見やっていた。

 その様子を、先に帰ってきていたセージが偶然目にしていた。ちょうど休憩室から出てきた彼は、ディーゼルたちが勝ち誇った笑いを上げながらパメラを牽いていくのを見て、青ざめた。

「ちょっと待て!お前ら!その子はスクラップじゃ――――待てぇ!」

 すぐさま叫びながらあとを追ったが、その声はうるさいエンジン音に掻き消されて聞こえなかった。

 雨の中、消えていく緑の小さな車体————その時同時に、遠くでそれとよく似た緑のシルエットが、前照灯をきらめかせて帰ってきた。

 その日の夕方、僕は無事仕事を終えて帰ってきた。

 自分の分の貨車の仕事と、それから彼女の旅客運送。当然かなり疲れたが、何とかミスも無くやり遂げることが出来た。

 幸い僕がパメラの代わりをしているということは、誰にもばれなかった。言葉の聞けない人にとっては、僕らの見分けはナンバープレート以外につかないし、どのみち時代遅れの機関車のことだと、どうでもよく思われていたのかもしれない。

 まあいいさ、ともかく彼女の名誉は守られただろう……そう思って機関庫に帰ってきたとき、ただいまと言おうとして異変に気付いた。

 ただいまを言うべき相手がどこにもいなかった。僕はさっと青ざめて叫んだ。

「パメラは!?」

「何、いないのか?」

 僕の大声に反応したブローズさんが言った。

「いません、何処にも……機関庫は空っぽで――――」

「オリバー!大変だ!」

 シルバーさんがそこまで言いかけた時、真っ青な顔でセージさんが飛び出してきた。

「パメラがお前と間違って連れて行かれたんだ!解体工場に!」

「ええぇっ!?」

 恐ろしい知らせに、僕は驚愕した。

「い、いつ……どうしてそんなことに?」

 震える唇でどうにかそれだけ訊くと、セージさんは息を切らしながら、こう答えた。

「ついさっきだ、奴ら、どうやらお前を連れて行けと命令が下されていたらしい、でもお前がいなかったから、同じ1400クラスのパメラを間違えて……」

「そんなっ……!」

「ブローズ、急いで追いかけてやれ!」

「分かってるよ!」

 セージさんが叫ぶか早いか、僕はすぐに飛び出し操車場中を駆け回った。

 その時、ちょうど、駅の入り口付近に数台のディーゼルと、緑の車体をくくりつけた荷台が見えた。

「パメラ、待ってくれ!行かないでくれ!パメラーっ!」

 僕は叫びながら、氷雨の中を駆け抜けた。だが、追いつくにはあまりにも距離がありすぎた。

 僕が入口に辿り着く前に、緑の背中は雨の中に消えていた。

「もう駄目だ……諦めよう。行けば今度はお前が殺される」

 ブローズさんは僕を止め、諭すように言った。息が続く限りどこまでも追いかけてやるつもりだったが、もうそれに従うほかなかった。

 頭の中でふたりの言葉が流れていた。

(これからは、お前が代わりにパミーを守るんだぞ)

(……お願い……行かないで、オリバー)

 僕は約束を守れなかった。パメラの願いも聞けなかった。

 絶望が冷たく胸の内を染め、雨とは違う雫が頬を流れるのを感じながら、僕は意味も理由もなく、暗い空に向かって叫んだ。

「うわぁあああああああっ!」