「見ろよ、本当にいやがった。こいつが例の‟幽霊機関車”か」
「GWR1400クラス……間違いない。客車はいなくなったらしいが、ブレーキ車もついてる」
現れたディーゼル二台は、僕らをじろじろ見て囁きあった。とっさのことと恐ろしいのとで、僕らはふたりとも、声が出ない。
それをいいことに彼らは好き勝手に喋りはじめた。
「しかし簡単に騙されてくれたもんだな。クルーも」
機関士の一人がそう言うと、別の一人が、吐き捨てるように言った。
「まあ緊急事態だったんでしょう。老いぼれが病気にかかったとなっては。これからも厳しい旅が続くんじゃ、途中で死んじまうかも分かりませんからね」
そして運転室から飛び降りてきたその人の顔を見て、僕は全身に衝撃が走るのを感じた。
「あなたは……オーガスタスの助手じゃないですか!」
月明かりに照らされたその顔は……あの日より少し老けてはいたが、兄さんの最後の助手、ブルース・ノラ氏その人だった。
最後まで兄さんと反りが合わなかった、蒸気機関車が嫌いな助手。
「僕達を裏切ったんだ!そうでしょう?」
彼の件とこの状況を理解して、僕はノラ氏を睨みつけた。
「裏切ってなどいるもんか……これが人類のためなんだ!」
ノラ氏は歯を剥きながら、連結棒を取り出して、叫んだ。
「古い道具はおとなしく死ね!」
たくさんの人たちが僕らの周りに集まってきた。さっきの駅員さんたちも加わり、僕らを連れて行こうとする。僕もトードも、恐ろしさで震えあがった。
「早く繋ぐんだ」
「連結器が壊れてやがるんだよ」
イザベルを置いてきたときの事故で、僕の連結器は傷んだままだった。彼らがまごつき、一瞬隙ができる。
「卑怯者っ!僕に触るな!」
僕はせめてもの抵抗のつもりで、侵入者に向けて蒸気を思いっきり噴き出した。
「うわああっ、熱っ……!」
「こいつめっ、生意気な」
彼らは負け惜しみのように連結棒で僕を叩いた。ガァン、と金属の跳ね返る音が体中にこだまする。随分ひどいことをするものだ。僕はどこか他人のことのように冷めて思った。
「ブレーキ車だ。そいつを引きずり出して、気に入りのブレーキ車から連れて行け」
ディーゼルの一台が冷淡な声で言った。その言葉に、虚勢を張ることも忘れ動揺する。
「やめろぉぉ!」
意味もなく僕は叫んだ。だけどそんなものが何の効力も持たないことを、痛いほど思い知っていた。
「うわあぁぁ!助けて!オリバーさん!」
連結棒を構えた人々が迫るのを見て、トードが金切り声で叫んだ。怯えている。助けを求められたけど、僕には何もできない。絶望の底で、僕は思った。
……ああ、僕がもしも人間だったならば――――たとえこの命を対価にしてでも、君を守れるのに。
「助けて!誰か助けてぇ!」
無駄と知りつつ、僕は蒸気を吹きかけ、何度も汽笛を鳴らした。ブローズさんたちに、どうか聞こえてくれるようにと願いながら。だが、僕の汽笛は音が小さい。山鳩の鳴き声のような汽笛は、小さな田舎の支線では上品だったが、警告や救援要請にはあまり向いていなかった。蒸気もなくなってきた。
もう駄目かも……。疲れか涙か、急速にぼやけていく視界を見ながら、僕はすべてを諦めようとした。
ところが、その時、
「ふざけんな何してくれてんだおらぁ!」
けたたましい怒鳴り声が響いて、開いたままの扉から誰かが走りこんできた。
その姿を認めて、僕は本当に涙が出そうになるほど安堵した。
「ブローズさん……!」
ブローズさんは来るなりノラ氏をぶん殴り、倒れた彼の胸倉を掴んで激しく詰め寄った。
「この腐れ外道め、やっぱりそんな魂胆だったのか!?オーガスタスが引っ張って行かれたのも、てめえの所業だな!あぁ!?」
「うぐ……」
殴られたノラ氏は苦しそうに呻いたが、ブローズさんの質問には答えなかった。
反撃に気づいて、ディーゼルと機関士たちが集まってくる。そこでシルバーさんが動いた。
「これでも食らえ!」
セージさんを背負ったまま、ディーゼルの一台に向けて、何かを投げつけた。
「貴様!何をっ――――」
――――ボゥン!
「ぎゃあ!」
ディーゼルは悲鳴と黒い煙を上げて動かなくなった。
「くそっ!通気口をやられた!」
運転室で機関士が毒づく。通気口にはぼろ布と泥が詰まっていた。煙突を塞がれると僕らは息が出来なくなるのと同じように、ディーゼルたちもそこをやられると動けなくなるのだ。
殺し屋一台の自由を奪って、クルー二人はもう一方のディーゼルを睨みつけた。
「さあ、まだやる気か?やる気なら行くぜ。お仲間は俺らが全部倒した、あとはその四角い奴だけだ」
狙われなかった方だけは、動くに動けず僕らを見つめている。さすがに一台とわずかなクルーだけでは、分が悪いと踏んだのだろう。少しだけ――――怯えのようなものが混じった目で、僕らを見る。
シルバーさんが言った。
「おとなしくそいつを牽いて帰った方がいいんじゃないのか?ディーゼルは不慣れだが、機関車の急所ぐらい大概分かるぞ。あんまり手ひどく壊れたら、お前らがスクラップになるかもしれん」
「……!」
彼の目がわずか見開いた。動揺したのだ。機関車である以上、彼も〝スクラップ〟という単語には本能的に恐怖を感じるのだろう。
「この……クソッタレの、蒸機クルーどもめっ……!」
彼の機関士が悔しそうに罵った。動けなくなった方のクルーも歯噛みする。
「このままじゃ手出しが出来ん、一旦退却だ!支線に応援を呼んである、すぐに呼び集めるんだ!」
「ちくしょう……!」
動けなくなった方が叫び、彼はそのまま引きずられていった。
それから負け惜しみのように、僕に恐ろしげな台詞を投げた。
「逃げられると思うなよ……すぐさま処分してやる」
機関庫には再び、束の間の静けさが戻った。
ともかく一番の危機は去った。が。
「逃げるぞ!じきに追手が来る!」
セージさんをトードの中に押し込めながら、ブローズさんが言った。しかしすぐさまシルバーさんが焦った声を上げる。
「駄目だ!罐の火が消えている!忌々しい奴らめ、この時のために火を消させたんだな……」
火が消えた上にさっき無理やり蒸気を使ったので、僕はエネルギー不足で疲労困憊していた。体が冷たい……それに、妙に眠い……。
「そんならとっとと点けろ!お前が出来る限り早くだ!」
ブローズさんは叫んだ。
僕は重くてくっつきそうになる瞼を必死で持ち上げながら、力を振り絞って、言った。
「ブローズさん、僕を動かして……、まだ蒸気は少しだけ残っています、とにかくここから出て……できるだけ遠くに離れましょう」
少ない蒸気で必死でピストンを動かし、機関庫から逃れる。
シルバーさんとブローズさんが協力して、必死で僕の火室に木っ端をくべた。
「燃えろ燃えろ、早く燃えろっ」
しかし、塊の石炭に短時間で火を点けるのは容易いことではない。
「は……は…………もう、だめ……だ……」
ついに蒸気が無くなり、僕の足は止まってしまった。
「待ってろ!すぐに火を焚く!あと少し、辛抱してくれ」
シルバーさんが上ずった声で僕を励ます。そして必死で僕の火室を掻き回した。
たくさんの足音が僕らを追ってくる。
「いたぞ!あれか!」
「盗難車だ、捕まえろ!クルーを逮捕するんだ」
ぼうっとする頭の片隅で、そんな言葉が聞こえた。どうやら警察らしい。ブローズさんたちは僕を盗んだことになっているようだ。
「おいおい、冗談だろぉ?たかだか蒸気機関車一匹に、たいした御歓迎ですこと」
ブローズさんは皮肉に笑って、僕から降りた。そして後ろのトードにいるセージさんに声を掛けた。
「セージ、病身で悪ぃけど、調整を頼むわ」
「ブローズさん!」
トードが叫んだ。
「大丈夫、傷つけやしねえよ。……むしろ死にそうなのは俺の方だって。見てー、あの銃……」
セージさんに計器の見張りを任せ、ブローズさんは追手の方へ行ってしまう。
早く動き出さなければみんなが危ない。
でも、未だに火が燃える気配はない。
「やはり駄目だ、炎が足りん……!」
シルバーさんが焦りを滲ませて言った。体は冷えているというわけじゃないのだが、動けそうなほどの蒸気は満ちていない。気持ちばかりが焦るが、どうにもならない。
「おぉい!マジで急いでくれ!こっちもそろそろヤバいよ!」
ブローズさんも切羽詰まった声を上げた。たくさんの人の声や足音が僕らを取り囲む。
「抵抗するなっ!おとなしく署までご同行――――」
「断る!」
バキッと嫌な音がした。どうやら彼が警官を殴ったらしい。
運転室のシルバーさんは焦っている。
「まだ燃えないか……とにかく焚きつけなけりゃ――――」
彼は燃えやすそうなものを片っ端から僕の火室に突っ込んだ。藁や紙屑の焼ける乾いた匂いがする。
「シルバー!まだか!まだ火は点かないのかよ!このままじゃみんなあの世行きになっちま――――」
ブローズさんが運転室を覗き込んで言う。しかしそこまで言いかけたとき、いきなりシルバーさんが大声で怒鳴った。
「少し黙ってろこのがなり屋機関士が!小さいヤカンじゃないんだから、ちょっとのことですぐカッカしないでください!」
「「「……」」」
全員がしばし押し黙った。
彼のそんな声を聞くのは誰もが初めてである。そもそも彼はほとんど怒ったのを見たことがない(笑ったのも見たことないけど)。その彼が怒るもんだから、驚きもあって相当迫力があった。僕も具合の悪さを忘れて一瞬呆然となった。
シルバーさんははっとして、すぐに声を落とした。
「……すみません。つい無礼な口を」
「いえこちらこそどうもすみません……」
ブローズさんが震え声で謝った時、僕の火室の中で、何かが爆ぜる音が聞こえた。
――――パチパチパチ……。
炎が木切れを舐める音だ。体がじりじり熱くなってくる。ボイラーが泡の弾ける音を立てて、かすかに沸きだした。
「!……やった!燃えたぞ!これでいける!」
シルバーさんが歓喜の声を上げると同時に、セージさんが掠れ声で叫んだ。
「出発だ!オリバー!」
「はい!」
まだ蒸気は完全には満ちていなかったが、何としてでも動かなければと、僕は必死で自分の体に鞭を打った。すると少しずつピストンが動き、段々と弾みがついて、ついには車輪が確かな速度を持って、レールの上を回り始めた。
そこまで行くとあとは楽だ。段々とスピードが上がり、後ろの集団を引き離し始める。
「ブローズ、早く!」
シルバーさんが運転室から叫んだ。ブローズさんが抵抗をやめ、全速力で駆けはじめる。
「はっ、はっ、はっ……はっ……」
「しっかり!手を伸ばせ!」
一生懸命追いかけるブローズさんに、シルバーさんが運転室から手を伸ばす。ブローズさんは喘ぎながら、それでもいつものごとく冗談めかして言った。
「っ、あぁ……ちっ、まさかお前と手を繋ぐことになるなんて思わなかったよ。どうせならナイスバディのカワイ子ちゃんがよかったのに」
「ぐだぐだ言ってないで早く乗れ!」
シルバーさんがブローズさんを引き上げた。
「「うわぁ!」」
そのまま二人一緒になって運転席になだれ込む。
「あー……助かったぁ!よく頑張ったぞ、オリバー」
「皆さんのおかげです……でも、どうして、すぐ助けに来てくれたんですか?」
安堵の息をつくブローズさんに僕は尋ねた。すると彼は座り込んだまま、こう答えた。
「病院はとっとと出たし、偶然ディーゼルとあの野郎が走っていくのが見えたんだ。ブルースの奴……無事に逃げ切れたらお仕置きだ。クソッタレ。セージまで危険にさらしやがって」
ブローズさんは心底悔しそうに罵った。
喧騒はだいぶ遠くなっていた。
壮絶な事態に見舞われた古い駅を去り、呆然としている警官たちも遠く置き去られていく。僕のクルーたちはそれを眺めながら囁き合った。
「種火が少しでも残ってて助かった」
「やっぱりどんなことがあっても、罐の火は絶やさないようにしなくちゃな」
セージさんの病気が治るまで、僕らは二、三日森の中の廃線に隠れ潜んだ。
幸い二人が薬をもらって帰ったので、彼の病気はひどくなることもなく回復した。
「なあ、お前人間ってやつをどう思う」
ある日、ブローズさんがふと、僕に尋ねた。
「どう……って、何故そんなことを訊くんです?」
質問の意味を汲みかね、僕は彼に尋ね返した。すると彼は難しそうに顔をしかめながら、一つ一つ適当な言葉を拾うように、僕に問いかけた。
「だからぁ……なんて言うかさ、今度のことで、お前はブルースの奴に裏切られたわけじゃん?だけど、その前の駅ではベイジルに助けられた。この二面性について、どう思うかって。セージの言う通り、人間はいい奴ばかりじゃないんだよ。それでも俺らを信じてくれるのかい」
僕はしばらく押し黙った。
まさか「セージさんの知り合い」と言って嘘をつかれるとは思っていなかったし、兄さんが……仮にも助手だったノラ氏に裏切られて殺されただなんて、考えたくなかった。
だけどフィッシャーさんたちの見せてくれた優しさが、それよりもっと強烈に僕の中に焼き付いていた。彼らは見ず知らずの僕らに親身になってくれたし、それが人間の本当の姿じゃないなんて、もっと信じたくなかった。それに、ノラ氏はオーガスタスを売ったかという問いに、明確に答えたわけじゃない。
「傷つかなかったと言えば、嘘になるかもしれない。……だけど僕は、それでも人を信じようと思います」
だから僕はそう彼に言った。真っすぐ彼を見て、心を込めて言った。
「あなた達のように、優しい人たちがたくさんいたのも事実だから」
ブローズさんは一瞬、ぽかんとしたようにわずか目を見開いた。それからすぐに顔を曇らせ、帽子で顔を隠しながら絞り出すように言った。
「優しいねえ……ありがたいね、本当に」
ブローズさんの涙を見たのは、その時が初めてだったかもしれない。
それが何に対してだったのか、今でも僕にはよく分からないでいる。