日々、只、善き哉。 第0話
Saga of the Western Engines 後編 ~脱出、その1~ - 10/15

第六幕 裏切りの機関庫

 そんなふうに、僕らの旅は全てが万全だったわけじゃない。クルーたちの方にだって、問題が出ることもあった。

「……ゲホン、ゲホン…………ゲホッ」

 小雪のちらつく、ある冬の日のことだった。その日、セージさんは朝から激しく咳をしていた。

 風邪を引いているようだった。何日も過酷な日々の繰り返しである、人間の方だって参ってしまわないとも限らない。

「セージさん、病院に行きましょう」

 心配したシルバーさんが彼に薦めた。しかしセージさんは首を振る。

「馬鹿なことを言うな……そう何日も、オリバー達を隠しておける場所があると思うか……大丈夫だ、このぐらい」

 彼は掠れ声で言ったが、足がふらついているのに僕は気づいた。熱があるのかもしれなかった。

 声には出さなかったが、僕はすごく心配だった。

 彼の指摘はもっともだ、だけど、本当はすぐにでも病院に行ってほしい。小柄だけど屈強な彼がここまで弱るなんて、今の今まで僕は見たことがなかった。何か嫌な予感がしていた。

「車掌がいなくなっては、トードが悲しみます」

「しかし……見張りが減っては、それだけ見つかった時に逃れるチャンスが消えるぞ……」

 シルバーさんもそう言ったが、セージさんはまだ煮え切らないようだ。

「はぁ……どうしたものかね」

 ブローズさんが困ったようにため息をついた。

「ゴホッ……心配ない、もう少し行けば、私が連絡を取った駅がある。そこには私の知り合いがいるから、そこまで行けば何とかよくしてくれるはずだ」

 セージさんは懸命に咳を抑えながら、掠れた声で彼らに言った。それで渋々、僕らも納得する。

「そっか……それなら、行くしかないな」

 僕らは不安な気持ちで、先を急いだ。

「ちくしょう、よりによって、今日はうようよいやがる……こんなんじゃ先に行けやしねえ」

 しかし今日に限って、嗅ぎまわっているディーゼルたちがやたら多かった。仕方なく、また待避線に隠れる。そのまましばらくやり過ごそうとしたが、彼らはまだしつこくうろついていた。

 日の差さない夜は、一段と気温が低い。雪が薄く屋根に積もってきて、思わずくしゃみをした。僕でさえ寒さを感じるのに、風邪を引いているセージさんにはなおさらこたえるだろう。僕の体では、イザベルのように完全にすきま風を防げるわけでもない。

 ――――早く行ってくれないかな。僕は心配故にいらいらしながら、藪の葉に積もる雪を見つめていた。

「早くしなきゃ、セージさんが」

 オリバーさんも焦りを滲ませてつぶやいた。走りだしたそうに、シュッと蒸気を吐く。

 クルーたち二人もいらついていた。

「セージさん……駅まであとどのくらいです?」

 もどかしそうな顔のシルバーさんがやってきたとき、ドスッ、と振動が走って、セージさんの体温が直に僕に伝わってきた。

「セージさん!」

 僕は思わず叫んだ。実際に目で見たわけではないが、体中の感覚で倒れ込んだのだと分かった。

「セージさん!?」

「セージさん!どうしたんです!?」

 驚いたオリバーさんとシルバーさんも同時に叫ぶ。

 セージさんは返事も無く、僕のベンチに横たわって苦しそうに息を継いでいた。

「ッゲホッ、ゴホッ……はぁ、はぁ……」

「セージさん!しっかり!」

「おいおい、本当に大丈夫かよ!?」

 ただならぬ様子に、ブローズさんも慌てる。

「このままではまずい、一刻も早く病院に入れなければ」

 シルバーさんが言った。

「だけどよ!このまま出てったらディーゼルに捕まるのがオチだ!」

 しかしブローズさんがすぐさま切り返す。線路の向こうではまだディーゼルたちがうろついていた。この状況ではおいそれと出て行けない。

 そこで、黙っていたオリバーさんが遠慮がちにつぶやいた。

「あの……僕思ったんですけど、僕らが捕まった方が、セージさんが助かる分ましだと――――」

「馬鹿!」

 即座にブローズさんが厳しく言い放った。その時、すぐ側の藪が揺れて、まったく別の声が飛び込んできた。

「いた!君たち!」

「!」

「うわぁぁ!」

「ひゃぁぁぁ!」

 突然人影が現れてそんなことを言われ、全員震えあがった。ついに追っ手が来たか、と僕は半ば覚悟を決めながらも正体なく悲鳴を上げてしまう。

「誰だ!うかつに近づくとただじゃ済まさんぞ!こっちには銃がある」

 シルバーさんが猟銃を取り出して威嚇した。筒先を向けられたその人は、途端に飛び上がって手を挙げた。

「うわっ!ま、待った、撃たないでくれ……私はこの先の駅から来た駅員だ。捕まえに来たわけじゃない」

 その台詞に、二人は一瞬緊張を緩める。

「この先って……セージが言ってた駅か?」

 ブローズさんがその人に尋ねた。

「いやそれはもう一つばかし向こうだよ。でも安心してくれ、私もセージさんの知り合いだから」

 彼はそう言って帽子を取り、ここに来た経緯を早口で説明した。

「実は予定の時刻になっても現れないので、これは今日中にここまでたどり着くのは無理だと思ってな。急遽私達の駅に対応を任せると、そこの駅員から言われたのだよ。そしたらセージさんが風邪で伏せってるし、ちょうどよかった。さあ早く、急いでくれ!ここで立ち話をしててもディーゼルに見つかるだろうし、君たちを隠して、セージさんに治療を受けさせなければ」

 それは、僕らにとって、非常に魅力的な条件だった。

 断っておくが、僕らはこの人のことを何も知らない。一瞬、僕の胸に――――昔の頑なだったころの悪い癖で、ちらりと不安がよぎった。

 フィッシャーさんだって、何にも知らないのに助けてくれた。だけど、そんなに何度もうまい話があるものだろうか……懐疑的になったが、セージさんを治療できる、という点は、とりわけ僕にとってこの上ない魅力だった。

 こうしている間にも彼は弱っていく。

 ブローズさんとシルバーさんも顔を見合わせたが、結局は腹を決めてその駅員さんに言った。

「……分かった。あんたを信用するよ。ともかくここにいたらみんな危険だからな」

「ふたりも……いいよな?」

「ええ」

「もちろんです」

 シルバーさんの問いに、僕らも答えた。他に選択肢はなさそうだった。

 駅員さんはそれを見て安堵したように微笑んだ。

「私の案内に従って来てくれ、安全に誘導しよう」

 僕らはすぐ近くの駅に案内された。

 薄い雪で覆われたがらんどうの駅は、怖いぐらい幻想的にぼんやりと光っている。

 ひっそりと点るいくつかの灯りが、余計に寂しさをかき立てていた。それにしても、ほとんど人が見当たらない。

「なんだか、ずいぶん人がいないんですね」

 こらえきれずに、僕は駅員さんに尋ねた。すると駅員さんは寂しそうにこう言った。

「この駅も廃止されることが決まったからね、見限ったスタッフがどんどん逃げていって、もうほとんど残ってないのさ」

「そうなんですか……」

 すると、ふいにブローズさんが鼻を鳴らして、いぶかしげにこう言った。

「なんか、油臭くねえ?」

「そういえばそんな……」

 言われてみると、そんな気がする。ディーゼルのオイルの匂いに似ている――――そう思った時、駅員さんが言った。

「ああ、この間、査察のディーゼルが入ってたんだよ」

「何!」

「ここにディーゼルどもが!?」

 ディーゼルが来ていたと聞いて、僕らは一気に戦慄した。しかし駅員さんは慌ててそれを否定する。

「いやいや!心配ない。君らがいないと分かるとさっさと引き上げて行った。本当に君らは運がいいな!もう少し早かったら彼らに捕まる所だ」

 彼はそう言って笑った。

 クルー二人は顔を見合わせたが、ひとまず気のせいだと思って安堵したようだ。

 やがてわずかに残った他のスタッフの人も集まり、僕らを隠れ場所へ誘った。

「そこの機関庫に入るといい。誰も使ってないし、隠れるにはうってつけだろう」

 駅には小さな扇状機関庫があった。三台分だが、端の方は少々崩れかけている。まだ無事な一か所に、僕らはバックで入れられた。

 すぐさまブローズさんとシルバーさんが、ぐったりしたセージさんを僕から降ろす。

「火を落としたらどうだね?」

 駅員さんにそう尋ねられたが、シルバーさんが首を振った。

「あいにくですが、すぐに動けるように保っておきたいんです。いつディーゼルどもに見つかるか分かりませんし」

 あくまで慎重なシルバーさんを見て、その人はまさかというように苦笑した。

「そんなこと言って……大丈夫だ。ここはしっかり扉も閉まるし、絶対に見つからんよ。それに燃やしっぱなしでは、オリバーの火室が傷むぞ」

「それもそうか……な」

 シルバーさんはオリバーさんの罐の火を落とした。それからブローズさんとふたりで、セージさんを近くの病院へ連れて行った。

 バタン、と音を立てて扉が閉まる。

 僕らはたったふたり、知らない駅の機関庫に取り残された。

 闇が濃くなると、急に心配になった。いつも側にいる人はいないし、知らないところで、何だか得体のしれないものがその暗がりから飛び出てきそうで怖かった。

 僕の心配とは裏腹に、背中合わせの彼はさほど不安ではないようだった。

「いい人に会えて、よかったね。ゆっくり休めるのはありがたいことだ」

 オリバーさんはそうつぶやいた。火が消えたので、少し眠そうである。だけど僕はちっとも落ち着かなかった。

「ええ、そうですね」

「……どうしたの?黙ってるけど」

 気のない返事を聞いて、オリバーさんが尋ねた。

「嫌な予感がするんです。……なんだか、話が上手く行きすぎじゃないですか?」

 さっきから不安に思っていることを、僕は正直に口にした。この駅に誘導された時からずっと、胸騒ぎがしてしょうがないのだ。ここの駅員さんたちも確かに親切だけど、誰かの悪意に敏感だった僕には、何か裏があるように思えてしまうのだった。

 聞いていたオリバーさんはやんわりと否定した。

「まさか……疑いすぎだよ。セージさんだって、きっとすぐ帰ってくるし」

「どうしてそんなに、素直に他人を信じられるんですか?」

「……」

 今度は彼が押し黙った。つい批判口調になってしまったことを僕は反省する。

 でも、今だけはちゃんと、彼に僕の気持ちを伝えておきたかった。

「……分かってます。そうすることを命じられたのが僕らだって。だけど、あなたは見捨てられたんですよ。この世界を形成する多くの人間たちから、いらないって言われたんですよ。もう少し疑ってみてもいいじゃないですか」

 僕らの味方は、本当は鉄道ここには少ないのだ。純朴で寛容的な彼の態度は美点でもあり、他ならぬ僕の心を開かせた一番の要因なのだが……。時々端から見ていると、どうも危なっかしいと思うこともある。もちろん僕らは道具だから――――どんなに理不尽でも、人の命令を聞くように作られているから、彼がそうだったとしても、責められるべきことじゃないのかもしれない。

 だけど抵抗する手段が限られているからこそ、僕は彼に余計な危険に巻き込まれてほしくなかった。ちょうど今現在のように、彼を守れる者は少ないから。

「僕は何にもできない。こうして引きずられているだけで、自力で逃げることもできない……早く逃げたいって時に、ブレーキは不要ですよね。僕は重荷になっているだけだ」

 喋っているうちに、とめどもなくなって自分の話になってしまった。だけどそれも僕がずっと感じていたことだ。

 本当はイザベルがこの旅を離れる時、僕も一緒に離脱した方がいいんじゃないかと思っていた。

 彼女より軽量であるとは言えど、僕も余計なハンデであることには違いない。それにそもそも、彼の‟オートタンク”という役割から考えれば、彼にはむしろイザベルの方がいるべきで、貨物用ブレーキ車の僕は、彼には必ずしも必要じゃないのでは……そう思っていた。

 こんなに側に居るのに、何もできない――――仕方ないと分かってはいても、僕を引きずっているせいで彼が余計に傷ついていくように思えて、悔しかった。せめて人間のように自由に動いて、整備や補給の手助けが出来たら、ディーゼルたちを追い払えたらどんなにいいだろうかと、思ったことは数知れない。

 なんだか泣きたくなってきた。

「僕にはあなたを守る腕もない。走る手助けになることもできない。だから……僕にできるのは、せめて忠告することだけなんです。すみません……自由になるのが、この言葉しかないから」

 それからこう、付け加えた。

「それも人には聞こえないけれど……」

「トード……」

 オリバーさんはしばらく黙っていたが、沈黙が重くなってきたところで再び口を開いた。

「だ、大丈夫だって!トード、セージさんがいなくなって心配なの?君ちょっと悲観的だよ」

 僕を励ますように、明るい冗談を含んだ声で言った。それからふいに真剣さを取り戻すと、ぽつりぽつりと言葉を選ぶように話し始めた。

「君は何もできないし僕を守れないと言うけれど、僕にだって走ることしかできないのは同じだ。君を襲うディーゼルやお偉方と、闘う武器も抗う言葉もないんだよ。だけど、君は文句も言わず僕について来てくれるじゃない。この旅だけじゃなく、逃げ出す前から、ずっと。駄目な僕にイライラしたこともあっただろう?でも辛抱強く慕ってくれるし、いろいろなことを教えてくれるし。君がいるってことだけで、僕は十分支えられているんだよ」

 その言葉に、僕ははっとなる。

「本当ですか?」

「誓って本当だよ」

 彼ははっきりと言った。

「君のために……運命を変えるために僕が出来るとしたら、走り続けることしかない。……だから、この道を選んだんだ。僕の走り様を見せつけてやれば、鉄道の偉い人たちもちょっとは考えを改めるかもしれないと思ってさ」

 機関車に許された、たった一つの抵抗――――切ない覚悟を滲ませて、彼は僕に改めて、自分の思いを語った。

 それから急に黙り込んだ僕を慰めるように、優しく、でも力強く何度も繰り返した。

「大丈夫。大丈夫だよ――――」

 とても、温かな声だった。

 僕は黙っていた。同意できなかったからじゃなく、泣きそうだったからだ。それもさっきまでとは違う理由で泣きそうだった。‟悲しい”じゃなくて、もっと熱く輝かしい感情――――。

 その時、闇の底から低く何かの音が響いてきた。

「……な、何?」

 オリバーさんが不安げな声でつぶやいた。僕も高揚した気持ちが、さっと引くのを感じる。

 音は締め切られた扉の向こうから響いてくる。しかも、だんだん近づいてくる。僕らのいるこの機関庫に向かって、真っすぐに。

 遠雷に似た、ゴロゴロと地を引きずるような音だ。聞き覚えがある。これは……この音は、まさか!

 ギギギギ、と音を立てて、扉が開いた。

 僕はその光景を実際に見てはいない。

 しかし容易に思い描けるその結末に、心底震えずにはいられなかった。

 彼の心境も胸中も、推し量る必要もなかった。おそらく僕と同じ気持ちだったから。

 守るかいなもなく、抗う声もなく、走り続ける以外に運命を変える術すらも持たないものたち――――。

 だけどそういうものを憐れんでくれるほど、神様は甘くなかった。

「うわあああああっ!」

 悲鳴が闇を裂いた。

 開いた扉から現れたのは、黒煙を吹き出し唸るディーゼルたちだった!