日々、只、善き哉。 第0話 
Saga of the Western Engines 前編 ~1930-40s’  僕らのいた風景~ - 9/13

「危ない所だったな」

 ようやく駅に帰ってきた時には夜中になっていた。とにもかくにも逃げ切り、オーガスタスのクルーたちは安堵の息をついている。

 その目を盗んで、僕はこっそり構外へ出て行こうとしていた。

「おい、オリー。どこへ行く気だ?」

 気付いたオーガスタスが僕を見咎めて尋ねた。僕は彼の方を見ずに、淡々と答えた。

「トードを探しに行く。今なら爆撃も止んでるから」

「馬鹿かお前は!助けに行くつもりなのか?」

 彼は目を見開き、僕に向かって怒鳴った。

「でも!あのふたり、戦う武器も逃げる動力もないのに、あの山に置いてけぼりだし……」

「オリー……」

 僕がそう言うと、兄は何事か考え込むように押し黙った。

 ガスの機関士、ジュリアンさんも難しい顔でペッパーさんに言う。

「お前ら本気で行く気なんか?夜やからなんて、油断できへんぞ」

「んなの、分かってるよ。馬鹿じゃねえんだからよ」

 ペッパーさんは事もなさげにそう言い捨てた。

「だったらやめろや!空戦どころかろくに武器も持たない俺らが、機関車一台で救出なんて……無謀すぎる!狂気の沙汰や!」

 ジュリアンさんはその答えを聞いて声を荒げた。彼だって僕らのことを心配してくれているのは分かる、自分でも、武器もないくせに助けに行くなんてどうかと思うし。でも僕は、どうしてもふたりを取り戻したかった。駄目な僕と出会ってから、ずっと文句も言わずに支え続けてきた彼らを、このまま見捨てたくなかった。

「じゃあほっとけって言うのかよ!あそこにいるのはトードだけじゃねえ、セージも乗ってんだぞ!お前自分の仲間が弾の飛び交う中に放り出されて、黙っていられるのか?」

 ペッパーさんも声を荒げた。ガスのクルーたちも互いに顔を見合わす。

「……でもブレーキ車と制動手だぜ」

 トニーさんが口を開いたが、すぐさまジュリアンさんに殴られた。そして彼は今度はリンデンさんに尋ねた。

「リンデン、お前はどう思ってるんや」

「んー?いいんじゃないのー?やってみても。賢いブレーキ車と制動手がいなくなるとさあ、俺らだって困るしー」

 リンデンさんはいつもの通りのんびりと答えた。オーガスタスがにやりと笑い、僕らに向かってこう言う。

「……やるなあお前ら。熱い心意気じゃねえか。諦めようぜ、ジュリー。こいつら多分、止めても行くよ」

 ジュリアンさんたちはそれからもしばらく考えていたようだったが、すぐに思い切ったように僕らの方に向き直って、きっぱりとこう言った。

「しゃあないわ、俺らも援護したる。けど弾に当たる気は早々ないかんな。トードとセージを救出したらとっととずらかるで」

「ああ、もちろんさ。感謝するぜ」

 ペッパーさんがそう言ってにやりと笑い、機関車二台きりでの救出作戦が始まった。

 その頃、僕らは人も草木もまばらな寂しい山の中に、ぽつりと放り出されていた。

 幸い自前のブレーキがあったおかげで、転げ落ちて崖から飛び出すなんてことにはならずに済んだ。だけど自分で逃げ帰ることは僕には出来ない。敵軍の空襲が止んだのは本当にありがたいが、そのかわり通りかかる機関車みかたもいなかった。

「……セージさん、大丈夫ですか?」

 僕は自分の中にいるセージさんに話しかける。流れ弾に当たって負傷した彼は、最後の力を振り絞って僕のブレーキを掛けると、その後は体力を使い果たしてしまい、ずっと動けずに休んでいた。

「出血は止まっている。だから大丈夫だ。……もっとも、次に爆撃されたら、終わりだけどね」

 荒い息をつきながら、セージさんは言った。大丈夫とは言っているが、僕は心配になった。このまま見つからなければ、彼の命も危ない。僕は長い間放っておかれたり多少銃撃されても平気だが、人間はそうはいかないだろう。

「オリバーさんたち、気づいてくれるかな……助けに、来てくれないだろうか……」

 僕は知らぬ間にそう口に出していた。こんな所へ来るのが彼にとっても危険だとは知りつつも、一番頼れる相手のことが頭に浮かんだ。

 だけどそこで、セージさんが諦めたようにつぶやいた。

「……きっと誰も来ないよ。わざわざ、こんな危険なところまで」

「え……セージ……さん?」

 暗い声色に驚いて、僕は思わず訊き返した。普段から彼はあまり口数の多い方でも騒ぎ立てる方でもないが、こんな希望もそっけもない、沈みきった口調をすることは今までになかった。

 僕が戸惑っていると、彼は再び重い口を開いた。

「トード、実は今この国と戦争しているのは、僕の父の国なんだ」

 僕ははっとした。セージさんが外国から来た人の子孫だということは知っていたけれど、それがまさか、この国が戦っている相手だとは、夢にも思わなかった。

 彼は続けた。

「僕の父は昔、はるか東洋の帝国――――日本からこの国へやってきた。だけど……日本はドイツと同盟を組んで、ついにこの戦争に参戦したらしい。僕の身体を流れる血の半分は、敵国のものになってしまった」

 セージさんは悔しそうに、でもどこか悲しそうに言った。彼が暗い口調にならざるを得ない気持ち、それが僕にも少しだけ分かった気がした。

 セージさんはため息をついた。

「こんなご時世に、わざわざ敵方の人間を助けたりしないよ。だから、僕を助けに来てくれる人なんていない。……ごめんな、僕と組んだばっかりに――――」

「そんなこと、言わないでください。オリバーさんだって、ペッパーさんやリンデンさんだって、オーガスタスさんたちだってきっと、あなたのことを心配してますよ」

 僕は悲しくなって、思わず涙ぐんでしまった。祖国同士が戦争したからってセージさんを嫌いになんかならないし、相棒が彼で嫌だったなんて、思ったこともない。彼は思慮深くて、とても素晴らしい車掌だ。それに僕が信じる彼らが、そんなに冷たい人間や機関車であるはずがない。長い間一緒に過ごしてきた、僕にはもう分かっていた。

「そう、だろうか……」

 セージさんはいぶかしげに言った。そして僕に、こう語りだした。

「僕はずっと、差別を受けて育ってきたよ。肌が黄色いとか、鼻が低いとか、言葉が変だとか、いろいろとね。ここに入社する時だっていろいろすったもんだがあった。今だって、本当は僕は車掌じゃない、ただの制動手だ。扱い的には機関士や助手よりずっと下だよ。でもきっと僕は、これ以上のポジションには就けない。そういうものなんだ。特にこの国は、機械たちの間でさえ階級社会だし……ずっと機関車に下に見られてきたお前なら、分かるかもしれないけど」

 驚いた。彼が心の底ではそんな事を考えていたなんて。やっぱり、人間同士の間にも、そういうものがあるのか。昔の自分と同じだと思いながらも、それだからこそ彼に言わなければならないことがあった。

「……分かる、ような気がします。でも――――」

 僕は何事か言いかけたが、いざそうなると言葉が上手くまとまらなくて一瞬言い淀んだ。

 セージさんはまた一つ大きなため息をついて、独り言のようにつぶやいた。

「人間は馬鹿だ。ほんの少しの違いに目くじら立てて、同じ仲間同士で殺しあっている」

 そして彼はそれを憂うように言った。

「この悲しいさがが、お前たちにも引き継がれていないといいが……」

 僕はただただ、圧倒されて言葉を失っていた。彼がそんなに辛い思いをしてきたんだということも、人間の善以外の部分も、僕らももしかしたらそうなんじゃないかという彼の言葉も、全部、深すぎるほど心に刺さってしまって、何と答えるべきか、分からなかったのだ。

 もう一度よく考えたのち、僕はようやく口を開いた。

「あの、確かにそうかもしれませんけど、でもけっして機関車も人も、そんな馬鹿ばっかりじゃないと思いますよ」

 セージさんが驚いて聞き耳を立てる気配がする。僕は続けた。

「セージさんの言う通り、僕は、ずっと機関車たちからは蔑まれてきました。でも、オリバーさんは、僕を対等に見てくれた。僕が何故今でも彼を〝オリバーさんMr Oliver〟と呼ぶのか、分かりますか?僕も彼を尊敬しているんです。初めて僕を大切にしてくれたひとだから、それなりの敬意を払わなくちゃと思った。彼に出会った時、僕は、この世界をもっと信じてもいいような気がしたんです。僕を必要として、当たり前に受け入れてくれるひとはちゃんといたんだ、って」

 それから僕はこう付け加えた。

「ペッパーさんもリンデンさんも、けっして、そんな人たちじゃないと思いますが」

「人の心の中なんて、誰にも分からないよ――――」

 セージさんがそこまで言った時、闇の向こうで何か、ポーッ、と鳥の声のような音がした。

「トードーっ!セージーっ!」

「あ……ひょっとして⁉」

 聞き覚えのある音と声に、僕ははっと耳をそばだてる。汽笛に続いて、ガタゴト、シューッという走行音が聞こえてくる。姿を見ることはできないけれど(後ろ向きのままだし)、僕には誰が来たか分かっていた。

「オリバーさんだ!それにオーガスタスさんも!セージさん、やっぱりみんなが助けに来てくれましたよ……!」

「……何だって……⁉」

 ふたりはほどなくして僕らの元へやってきた。

「トード!セージさんも……やっと見つけたよ」

 息せき切ったオリバーさんが、それでも嬉しそうに言う。あんなに疲れているのに、また長い距離を駆けてきてくれたんだ……。そう思うと胸の奥の方がぐっと詰まりそうになった。

「ああよかった、無事だったか。早く、早く帰るぞ」

「セージは怪我してるぜ。病院へ運ばなくちゃ」

 クルーたちも次々と降りて、僕をオリバーさんに連結し、セージさんの手当てをする。その様子を見ていて、僕はとても嬉しくなった。

「ほら、僕の言った通りだったでしょう?」

 横たわっているセージさんに向けて、僕は言った。しかし彼はまたごく小さな声で、こうつぶやいた。

「……いや、馬鹿だよ」

 自分の腕に顔を埋めているようなくぐもった声で、彼は言う。

「こんなところへ自分の身の危険を冒してくるなんて……信じられないよ。みんな、本当に、大馬鹿だよ」

 言葉こそ素っ気なくて無粋なものだったが、その裏に含まれているのがまったく別の感情であることを、僕らはみんな分かっていた。少しだけ、その声だけでなくて、僕に触れている身体もその感情で震えているのを感じていた。車掌室の堅い木のシートに、熱いものが一粒こぼれる。

「大馬鹿たちが助けに来たよ」

 僕に近づきながら、オリバーさんが囁いた。僕も涙を押し殺してうなずく。

「はい。……でも、きっと来てくれるって信じてましたよ。僕も大馬鹿ですね……」

 後ろ向きで本当によかったと思った。星明かりで涙に歪んだ顔を見られなくて済んだからだ。

 そして僕らは、いるべき我が家に向かって走り始めた。