第五幕 戦争
その日の午後、僕はトードと別の路線へ貨物の運搬に出ていた。
もうずいぶん慣れたもので、昔みたいに失敗することも少なくなっていた。あるいはトードがちゃんと後ろについていてくれるからかもしれない。僕らはすっかり大切な友達になっていた。
荷物を届けて、空っぽの貨車を牽く帰り道。ふと、頭上の空にさっと影が差した。
鳥のような影につい誘われて空を見る。
「あ、飛行機だ」
「本当――――」
トードがそこまで言った時、その飛行機が急に行動に出た。
――――バババババババ!
「わぁーーーーーーっっ!」
「ひゃああぁっ!」
何かを見つけたかのように大きく旋回し、高度を下げて、僕らに向かって火の粉の雨を降らせてきたのだ!
火の粉はすごいスピードで飛び、僕の体に当たるとキン、と音を立てて表面のペンキを剥いだ。壊れるほどではないが痛かった。
それが銃弾というものだと知ったのは、だいぶ後になってからのことだ。
「どうして!?どうして僕らを攻撃するの!?」
僕はパニックになって叫びながら、それでも足だけは必死で動かして訊いた。するとペッパーさんが、同じく焦ったように上ずった声を上げて叫んだ。
「あれは敵国の飛行機だ!なんてこった!こんなところにまで、飛んでくるようになったのか!」
僕はそれを聞いて心底震えた。あれがどうやら‟戦争”をしている国の……今朝仲間たちが話していたように、機関車をも焼き焦がしてバラバラにする怪物らしい。
加減弁と逆転機で僕に鞭を打ちながら、ペッパーさんが言った。
「俺らが何か重要なものを運んでると思ったのかもしれん。そうでなくても、敵の輸送手段は一個でも潰した方がいいって腹積もりなんだろう……火を焚け、リンデン!」
「やってるよぉ!」
リンデンさんは息も絶え絶えだ。僕も限界以上に駆り立てられ、体が本当にバラバラになってしまいそうなほど痛くなった。蒸気を焚いても焚いても、作ったその場から消費されてしまう。目の前が霞んだ。でも――――止まったらその瞬間に終わりだ!
「オリバーさん!頑張って!」
その時、僕の後ろでトードが叫んだ。その言葉にはっとし、意識を取り戻す。
「止まったらだめだ!今僕らを救えるのは、君しかいないんだぞ!」
あれはセージさんの声。その時、体の奥深くが何か恐怖とは違う力で震えた。
そうだ……僕が背負っているのは、僕の命だけじゃない。トードも、それからリンデンさんも、ペッパーさんも、セージさんの命だって背負っている。
出来の悪い小さな僕でも、信じて命を預けている人たちがいる。僕はその信頼に応えなくちゃならなかった。
「逃げなくちゃ……走らなくちゃ!」
僕は大きく息を吸い込み、精一杯線路を走り続けた。
それからは文字通り、死ぬ気で走った。そして気がつくと、いつもの駅の構内に滑り込んでいた。敵の飛行機の影は見えない。どうやらうまく振り切ったようだった。
「はぁっ、はぁっ…………はぁ……」
息を切らして駆け込んできた僕らを、オーガスタスとパメラは怪訝な顔をして見つめた。
「どうした、息せき切って……何かお前、顔色悪いぞ?おい、どうした⁉」
オーガスタスが心配して僕に話しかけてくれたが、僕は怖かったのと疲れすぎていたのとで、上手く声が出なかった。
何と言ったらいいか、分からない。あの恐怖も、燃える火の粉も、僕らを嗤うように唸る飛行機のエンジン音も――――。
「何かあったんか?ペッパー」
震えている僕を見かねて、ジュリアンさんが言った。
「敵軍の飛行機だ。たぶんドイツ軍の……あいつら、こともあろうに俺らを攻撃してきやがった!くそ!忌々しいイカレ政党の狗どもめ!」
ペッパーさんは怒り顔で言って、それでも足りないとばかりに帽子を地面に叩きつけた。リンデンさんがいつもは見せないような、不安げな顔を浮かべて言う。
「あの路線、もう目ぇつけられてるんじゃねえか?怖ぇよペッパー……俺たち、命がいくらあっても足りないぜー?」
「怖くても行くしかねえだろうが。それが俺たちの仕事だ。だいたい一番怖かったのはこいつらだぞ」
ペッパーさんはそう言って、僕のペンキが剥げたところを撫でた。
「可哀想に」
無骨な手が思いがけない温かさを持って、僕の体に触れた。それでなんとなく安心して、ようやく声が出た。
「大丈夫です。いっそのこと全部剥げちゃえば、また元の緑に戻れるかもしれないし」
「……おいおい」
「お前なあ……」
場に見合わない冗談を聞いて、みんなが呆れたように顔を見合わせた。
リンデンさんがいつも通りにへらっ、と笑ってのんびりと言う。
「オリバーが鋼鉄でよかったよぉ。そうじゃなかったら俺たち、今頃ハチの巣だったもんなあ。これからも、しっかり護衛頼むぜ」
「ははっ」
「お前も頑張らんか、リンデン!他人……いや機関車任せやなあ」
とうとうさざめきのように笑いが起こった。冗談か本気か分からないセリフにその場が和む。
「僕は鋼鉄じゃないんですよ~。痛いです」
そこでトードが悲鳴を上げた。珍しく本当に泣きそうだった。途端にみんな慌てて彼をなだめにかかる。
「トード!ああお前も可哀想に……所々木が抉れてるじゃねえか。すぐ直してもらうからな」
ペッパーさんが彼にそう言っていた。その様子を見て、オーガスタスやパメラたちは苦笑いする。
「まったくなあ、お前らはほんと相変わらずだ。漫才見てるんじゃねえんだぞ。おかげで戦争中だってことを忘れちまいそうだぜ」
「ふふっ、本当ね」
ガスが呆れ顔で冗談を飛ばすと、パメラがくすりと笑った。
そして彼はこう、はっきりと言った。
「大丈夫だ、俺らは大丈夫」
その言葉は何よりも力強く、僕らの励ましになった。
黒い塗装というものはこういう時のためにあるらしい。あとは余計な手間を割いている時間はないので、汚れも目立たない管理も簡単な色にしているとか。
理屈は分かったが、僕は一刻も早くあの平和な日々に戻りたかった。国の事情に人間以上に打つ手を持たない僕らだが、ともかく早くこの戦争を終わらせてくれと願った。
緑の塗装でイザベルを牽いていた頃が、何百年も昔のことに感じた。
戦争の足音が確実にこの国にも迫り、僕らの仕事はほとんどが軍や避難支援関連のことばかりになった。疎開先へ向かう人たちを乗せたり、配給や軍への支給物資を運んだり。とてものんびり二人三脚で支線を旅している暇はない。イザベルもスザンナもオクタヴィウスさんも、今は‟ただの客車”の一台になって、前向きで走れないと愚痴をこぼしていた。
駅はずいぶん様変わりしていた。煤にまみれてみすぼらしくなり、いつも疲れた顔の人たちでごった返していた。そんな人たちを、ひっきりなしに機関車や客車たちが運ぶ。戦地か、あるいは疎開先へ、誰かを見送る光景はホームの端で毎日見られた。
噂では、軍に従って同じように遠い国へ出征した仲間もいたらしい。彼らの中には、そのまま二度と帰って来なかったものもいた。人も、鉄道も、みんな傷ついて疲れ切っていた。
それでも本格化した空襲は止まず、ついには連日、朝昼問わずやってくるようになった。
だからと言って僕らは逃げ隠れるわけにはいかなかった。鉄道を動かすものたちは黙々と、だけど心の底ではいつ自分も爆撃されてバラバラになるだろうかと、みんな怯えながら毎日の仕事に精を出していた。
その日も僕は、オーガスタスとトードと一緒に、遠く離れた街へ支援物資を運ぶ仕事に出ていた。この頃にはもはや、僕らの貨物向けとか旅客用とかいった振り分けは、ほとんど意味がなくなっていた。動けるものは動かし、手の空いているものにはとにかく仕事を回す。みんなが‟勝利”という一つの目的に向かって戦う総力戦なのだ、ましてや使役用のモノたちに仕事を選ばせる余裕などない、というのが彼らの意向だった。
あまり力はないもののその小回りと頑丈さを生かして、僕ら4800クラスも物資輸送に繰り出ていた。何度も街と街を往復し、帰りも駅方面宛の物資を満載にした貨車を牽いて、日暮れ近くになった頃、僕らは言葉少なに家路へ向かっていた。
その時、遠くの空からブゥウウウン、と不穏な音が響いてきた。
「おい、ペッパー……あれ!」
リンデンさんが上ずった声を上げる。そう思う間もなく、あっという間に敵国の航空編隊が姿を現した。
「また来やがった!」
唸るプロペラ音が、冷たい緊張感と共に僕らを包む。
「ペッパー、リンデン!急げ!奴らが来るぞ!」
「オリー、走れ!」
前からオーガスタスと助手のトニーさんが叫ぶ。ペッパーさんも僕の計器をいじる手に力を込めて怒鳴った。
「分かってら!」
速度を上げて奴らを振り切る。しかし今日は妙にしつこい。連日のピストンの酷使で、速度も思ったように出なかった。
そこを狙うかのように、影が高度を下げる。僕の後ろに消えた、と思った瞬間、すさまじい勢いで集中砲火が浴びせられた。
――――ダダダダダダダッ!
「……っ!」
「……ううぅ……ひぃっ……!」
銃弾の赤い雨が、ばらばらと叩きつけるように降り注いでくる。僕もトードも恐ろしくて震えたが、走り抜けるより他に逃れる術はない。
「くそぉ!どっか失せろよ狗野郎!こちとら抵抗する武器は持たないんだ!」
ペッパーさんが空へ向かって毒づいた。……本当に、その通りだと僕は思う。僕らは攻撃するつもりも自衛の手段すらも持たないのに、なぜ彼らが執拗に狙うのか、理解できなかった。
「やめてくれ!どうして僕らを攻撃するんだ⁉僕ら、君と争いたいわけじゃない!ただ困ってる街の人たちへ、必要なものを運んでいるだけなんだ!お願い攻撃を止めてぇっ!」
僕はすぐ上を飛ぶ飛行機に向かって語りかけたが、返事は返って来なかった。代わりにもっと大きな爆弾の雨が降ってきた。
「危ねぇー!来るぞぉ!」
リンデンさんが叫ぶと同時に、ひときわ大きな音と光が炸裂した。
――――ドカァン!
「きゃぁぁぁぁ!」
「うわぁぁっ!」
僕と、それからオーガスタスの‟トード”の悲鳴が上がった。恐怖で思わず目をつぶりかけたとき、前からオーガスタスが叫ぶ。
「目ぇ背けんな!ふたりとも!こっからは下り坂だぞ!レール踏み外したらそこであの世行きだっ!」
「はっ……!」
「ご、ごめんなさい、オーガスタス」
その声に僕らは気力を取り戻した。この先は岩山の谷あいを走る線路で、曲がりくねったカーブと急な坂が続く。集中していないと道を踏み外す。動けなくなれば奴らの絶好の獲物だし、それ以前に斜面を転がり落ちて谷底へ、なんてことになりかねなかった。
「よりによってこんな時に山道かよぉ……ちくしょぉ、神様はちょいと俺らに厳しすぎるぜ、ペッパー」
嘆くリンデンさんに、ペッパーさんがこう言った。
「じゃかぁしい、お前は黙って火を焚け!三十年真面目に機関士やってきた俺の腕を信じろ!」
それから彼はこうも言ってくれた。
「……ついでに俺らの相棒もな!オリバー、それからトードにセージ!頼んだぜ!」
「はい!」
「任せてください!」
その信頼に応えるべく、僕も自分を奮い立たせる。後ろからもトードのしっかりした声が聞こえた。
こんな重い荷物を牽きながら急坂を下りるのは危険だが、逆に下り坂を利用してもう少しスピードが出せる。左右にそびえ立つ岩の壁が障害物になり、彼らから身を隠す盾となってくれた。脱線しない追突しないギリギリの速度で、僕らは険しい山道を駆け下りた。
ともすればぐいぐい押して道を外れそうになる貨車の列を、トードが後ろでしっかりサポートしてくれる。いいぞ、このままなら行ける――――。そう思った時だった。
死角からいきなり、低空飛行で一機が現れた。まずい、と思う間もなく、焼夷弾と銃弾の洗礼を受ける。
「うわぁぁ!」
「ぎゃあっ!」
今度は至近距離で狙われ、機関車も貨車も乗務員もみんな悲鳴を上げる。間近に突き刺さった焼夷弾から火が噴き出て、危うく荷物に燃え広がりかけた。幸い高速で走っていたので、そのまま炎を振り飛ばす。その間にも銃弾の雨は絶え間なく降り注ぎ、僕の安全弁キャップの一部をもいだ。
その時、
「ぐあぁっ!」
「セージ!?」
「ひゃぁ!」
ほぼ同時にセージさんとトードさんの悲鳴が聞こえ、それからガクン、と揺さぶられるような衝撃を感じた。ふっと後ろが軽くなる。
「しまった!連結が!……トードが離されちまった!」
「嘘でしょう!?」
嫌な予感と同時に、ペッパーさんが慌てた声で叫んだ。
「トードーっ!セージさぁん!」
甲斐のないことだと知りながら、僕は無意識のうちに叫んだ。
「後ろ気にしてる場合か!止まれ!止まるんだ!」
ペッパーさんが怒鳴る。
言われて初めて、僕は自分が晒されている危機に気づいた。前を走るガスの車両が、見る見るうちに近づいてきている。
トードがいない今、僕自身が自分のブレーキで止めなければならなかった。一旦懸念を追い出し、力いっぱいブレーキを掛ける。
「っ……!」
が、速度はなかなか落ちなかった。キイイィ、と線路からブレーキ部分から、嫌な音がする。
(だめだ、積み荷が重すぎる……!)
僕のブレーキだけでは、この貨物の重さを支えるには力不足なのだ。どうしよう、でも……トードはもう後ろにはいない。
「オリー!」
僕の異変に気付いたオーガスタスが叫んだ。同時に、とうとう彼の列車の最後尾にぶつかってしまう。
「がっ……!」
「うぅ……!」
彼と、それから彼のトードの悲鳴、同時に二つが聞こえた。二つ分のブレーキが軋む音が聞こえる。このまま受け止めてくれるつもりらしい。
「ぐっ……さすがにこりゃきつい……っ!」
だが、それは屈強な彼にとっても簡単な仕事ではない。自分の牽く荷物の重みと、その上僕と僕の荷物の重みまでも足して止めようともなれば、いくら屈強とは言えど、一介の小型タンク機には無謀とも言える挑戦だった。
「しっかり!ふたりとも!」
僕と向かい合っているオーガスタスのトードが、僕らを励ます。僕も必死で限界以上にブレーキを掛けつづける。
「頑張れオーガスタス、トード!なんとか止めなきゃ、みんな崖下だ!」
オーガスタスの車掌さん、アグリッパさんが言った。疲れすぎて霞む僕の目に、谷底に張り出した急カーブが見えてきた。
このままの速度で行けば、間違いなく崖へ飛び出す。
「言われなくても、分かってらぁ……俺が弟とクルーを殺すわけには……ッ!」
軋むブレーキ音の間に、歯の隙間から絞り出すようなガスの言葉が聞こえた。崖の急カーブはぐんぐん迫ってくる、ついにその中に突入したが、三つ分のブレーキの力もあって、速度は落ち始めていた。
そしてついに、僕らを苦しめたスピードはゼロになった。
「と、止まった……」
気が抜けたようなリンデンさんの声が聞こえる。ドス、と僕の運転室に座り込む。僕らはカーブの中ほど、ギリギリのところで危うく静止していた。
「急いで出発するぞ!また奴らが来る!」
ペッパーさんがみんなに叫んだ。まだ呆然としている僕に向かって、オーガスタスの叱責が飛ぶ。
「ほら、しゃんとしろオリー!俺はさすがにお前を引きずっては走れないんだから、帰りは自分の足で逃げてくれよ!」
「う、うん」
僕は反射的にうなずいた。そして、トードと車掌さんを残して、その路線を後にしたのだった。