第三幕 ブレーキ車、56831の独白
生まれた時から、僕は世界のヒエラルキーでは下の方に置かれているのだと、感じていた。
味気なく地味な塗装。自走もできない軽い木の体。ランプと手回し式のブレーキだけが数少ない特別な造りだが、それでも僕の仲間はとても多かったから、そんなものはさしたる個性ではなかっただろう。
僕はGWR16トンブレーキ車、56831―――――通称「トード」だった。これは鉄道の電報用の符号で、独立した名前ですらない。そんなところでも扱いの差はよく分かるだろう。
当然機関車たちは僕を馬鹿にした。
「別にお前なんか、いなくたっていい。代わりはいくらでもいるんだから」
そう言って僕のことを軽んじていた。
そのくせ重い荷物を牽く時は、自分達の力だけでは止めることができないから僕らに頼る。そしてひとたび失敗すれば、僕のせいにされた。
「彼がちゃんと止めなかったのよ、信頼して任せるって言ったのに――――」
勝手だと思ったが、言い返す言葉がなかった。
ただ、整備士のアンソニー・トワイニング氏だけは僕にもちゃんと目を掛け、こう言ってくれた。
「ブレーキ車にはブレーキ車にしかできないことがあるんだよ」
彼は常々そう言いながら、僕を念入りに整備してくれた。お前は年代物だし、手厚くメンテがいるだろうからと。唯一僕に気を配ってくれる親のような存在の彼だったから、その言葉を誇りにした。
だから、僕は、そういう風に生きてきた。
調子に乗って速度を出し過ぎた機関車は止めるし、彼らに悪さをしようと企む貨車たちには喝を入れて、動きを制御した。階級差に関係なく思っていることは何でも言ったし、鉄道員たちの何気ない会話からも、路線や世間の事情をキャッチした。何か、サポートに繋がる思いがけないヒントが、その中に転がっているかもしれないから。それが、ブレーキ車としてこの世に生まれた僕の務めだと思っていた。
だけど一方で、機関車に対する劣等感と諦めを消せなかった。
いつの頃からか頑なになり、僕は誰とも深く関わらなくなった。機関車も、それから同類の貨車も僕と関わろうとしなくなり、もっぱら予備として取っておかれたが、そのことも別に何とも思わなかった。
僕の代わりなんていくらでもいる。ブレーキの手助けは裏方の大事な仕事だけれど、誰もそれに気づかないし、目を向けてくれなくていい。僕はただ言われたように働いて、誰にも知られずに朽ちていくだけ。それでいい。それが正しい。
なのに――――。
「トード!昼間は……ごめんね」
なんであなたが……僕に謝るんですか?
話の相手はつい最近組み始めたばかりの機関車だ。昼間彼が調子に乗って失敗しかけたのを、僕が自分のブレーキで止めたのである。若くて経験が浅く、少し上手くいったからといって自惚れたかと思えば、自信なくおどおどしていることもあった。下馬評も失敗が多いということだったので、彼に付くと決まった時、僕は人知れず心の中でため息をついた。
彼も、きっと他の機関車と同じなんだ。実力もないくせに、立場を鼻にかけて、僕をいいように扱う。――――はっきり言って嫌いだと思った。面倒だと思った。
だけど、そんな一瞬で、あなたの何が分かったというのだろう。
彼から謝られた時、僕は彼の価値を、何か自分の汚い感情で踏み違えていた気がした。
「……もういいです」
自然とそんな言葉が出ていた。許してもらえたのを悟ったのか、彼は嬉しそうな顔をする。それを見て僕は思った。
無邪気な笑顔だ。そうだ、彼はまだこの世に生まれ出て一年も経っていないんだもんな……頭のどこかではそう冷めた心で分析している自分がいたが、曇りのない感情を向けられるのは、やっぱり素直に嬉しかった。なんだか自分がずいぶん昔に忘れたことだと思うと同時に、僕はカリカリしたことを少し反省した。
謝ってくれたのも、この純な若さゆえなんだろうか。人も機械も、新しい世代の考え方というものは、時に奇想天外で、ともすれば常識はずれな行動を生むものである。思ってもみなかった新鮮な感覚に触れ、極力機関車との関わりを避けてきた僕は初めて――――このひとのことを、もっと深く知りたいと思った。
そこでどうせ無意味だと聞き流してしまったことを思い出し、彼に尋ねた。
「名前……もう一度訊いていいですか?」
彼は少し驚いた顔をし、とても美しい声で答えた。
「オリバーだよ」
Oliver―――――綺麗な響きだ。それでいて優しい。まさに実り豊かでなおかつ強かな植物を連想させる名だ。僕は少し、うらやましくなった。大事にされているんだ、やっぱり僕なんかとは違うんだろうなぁ……。
だけど、
「よろしくね、トード」
不恰好で無個性な‟名前”が、彼に呼ばれると不思議と嫌じゃなかった。まあ、僕にはそれ以外の呼称などないのだし、番号で呼ばれても困る。それに彼についている限りは、彼にとって‟ブレーキ車”は一台しかいないのだから……案外このままでもいいかもしれない。
僕とはまったく違う、だけど、どこか僕に似た、‟変わり者”との遭遇。――――彼にならついて行ってもいいかも。僕はごく自然にそう思った。失敗もするし経験も足りないのなら、僕が支えてあげればいいんだ。だって僕には、サポートのためのブレーキがついているんだから。
初めて巡り会った温かな出会いに、僕は何かでがんじがらめになっていた心の奥が、少しずつ解け始めていくのを感じていた。