日々、只、善き哉。 第0話 
Saga of the Western Engines 前編 ~1930-40s’  僕らのいた風景~ - 4/13

 僕は早速貨車置き場に、トードを探しに行った。

「トード!おはよう!」

 彼を見つけると、先に僕から挨拶する。兄さんに「自分から誠意をもって接しろ」と言われていたので、どんな態度を取られても僕は彼に親しく接することにしていた。

 ところが彼は挨拶を返す前に、訝しそうな顔をして、開口一番僕にこう言った。

「……なんだか、音が変じゃないですか?」

「えっ?」

 唐突にそう言われて、僕は面食らう。だけど、自分ではどうとも感じない。

 思わず立ち止まると、トードは僕をしげしげと見てこう言った。

「仕事に行く前に、一旦診てもらった方がいいですよ。このままで行くと、おそらく事故が起こります」

「そんなことないよ。どこも痛くないし気分も悪くない。それに仮にどこか悪くたって、今日一日ぐらい大丈夫だよ」

 僕は走りたかったので、彼にそう告げた。

 するとトードは面白くなさそうに僕を睨みつけ、皮肉めいた冷たい口調で、憮然と言い放った。

「あなたって本当若いですね、実力は過信するし、問題は軽く見るし……でも自己管理は働くものの基本ですよ。ましてあなたはクルーの命も乗せてるのに、その発言はあまりにも無責任じゃないんですか?」

 これにはさすがに僕もカチンときた。

 自制がかかる前に、口の方が勝手にきつい声で喋り出していた。

「そんなの分かってるさ、偉そうに!だいたい、いつもそんな冷たい態度を取ってくるくせに、君に僕の何が分かるんだ⁉僕自身でも感じないことなのに、知り合い以下の君が、音を聞いただけで分かるわけないじゃないか!」

「……!」

 今まで溜まっていた不満の分まで、かなり激しく言い返してしまった。言った後で自分でも後悔したが、お互い様だと思った。

 トードは驚いたように、口を半開きにして僕を見つめている。まさか言い返すとは思っていなかったのかもしれない。……でも、君にそんな顔をする権利はない。僕が感じていた痛みを少しでも思い知ればいい、それならいい気味だ、そうとまで思った。よっぽど本当に言ってやろうかとも思ったが、そこにペッパーさんが割って入ったので思いとどまった。

「なんだ、ケンカしてんのか?幸先悪いからやめろ。今日も遠出だぞ」

 ぴりぴりした雰囲気のまま、僕らはいつも通り連結されて走り出した。

 昨日まで降り続いた雪が止んで、黒い泥になって線路に溜まっていた。

 しかし邪魔になるほどではないので、雪かきなしで跳ね飛ばして行ける。さっきのことを忘れたくて、少し飛ばし気味に走っていた。

「順調だな~」

「そうだな。しかし何か――――」

 リンデンさんはいつも通り、のんびりと罐を焚いている。ペッパーさんだけは不思議そうに首を捻っていた。

 やがて大西部でも指折りの、大きな分岐点が近づいてきた。本線や他線との接続、各方面へ向かう路線が複雑に入り組んでいる。ここではスピードを落とさなくてはならない。

 僕はブレーキを掛けようとした――――が、

「なんだ!?止まらない!」

 雪のせいでレールが滑る。それに、ブレーキの効きが鈍いようだ。そこまで思った時、僕ははっとした。

 出がけにオーガスタスに言われた言葉が、今頃になって蘇ってきた。

(事故が無くてもちゃんと、トワイニング氏にメンテしてもらってるのか?トードがいたとしても、自分のブレーキも確かめとかなきゃ駄目だぞ――――)

 でも僕は……そのアドバイスを、自分は大丈夫だっていう慢心で聞き流していたんだ。

「どうしよう……大変だっ!止まって!お願い、止まってくれーっ!」

 一気にボイラーが冷たくなるのを感じながら、僕は力の入らないブレーキを必死で動かそうとした。しかし、まったく手ごたえがない。焦りのせいもあって、制御が上手くいかない。

「ちくしょう!やっぱりか!……止まれ!止まれオリバー!」

 ペッパーさんも叫んだが、全然速度が落ちない。それどころか下り坂になっているせいで、むしろどんどん上がってくる。ボディががたがた震えた。

「うわぁぁぁっ、あーっ」

 リンデンさんが声にならない悲鳴を上げた。

 目の前の分岐点が見る見るうちに近づいてくる。こちらの信号は赤。向こうは青。

 急行を牽く大型機関車が、ものすごいスピードでこちらへ突っ走ってきていた。

「わああああっ、誰か止めて――――!」

 僕はもうパニックになって叫んだ。そのとき、

 ―――――キキィイイイィィィ……。

 金属と金属がこすれる、けたたましく鋭い音がして、急に僕のスピードが落ちた。赤信号に飛び込む寸前で僕らは停止し、分岐点の前で立ち止まった。

「危ないだろ!気をつけろチビ!」

 すぐ鼻先を急行列車が汽笛を鳴らして通り過ぎていく。もしあのままだったら、どうなっていたか知れない。

 でも、いったいなぜ?――――呆然とする頭の端で、僕は〝ブレーキ車〟の彼の存在を思い出した。

「トード?君……」

 僕は後ろに向かって声を掛けた。さっきまであれだけ仲違いしていた彼が、まさか僕を助けてくれるとは……。

 トードは力を出し切ったように、一つため息をついて言った。

「止めろって言われたから止めただけです。あなたが事故を起こすと僕も困るし」

 そして厳しい声が返ってきた。

「自惚れちゃいけないんだってことが、分かりました?」

「……」

 僕は何も言えなくて、ただ黙っていた。

 今度ばかりは深刻なミスだとして、僕らは駅長さんからきつく絞られた。一歩間違えば大事故になりかねなかったし、当然だろう。申し訳ない気持ちになって僕は家路についた。

「だから言ったろ!気を付けろって。お前は自分じゃ成長したと思ってるかもしれんがな、一年目なんてひよっこ同然なんだから、何でもかんでもできるなどと調子に乗るんじゃない」

 機関庫に帰ってから、ガスにも怒られた。僕の事故の一報を聞いた彼は、相当立腹して、向きを変える暇すら与えず雨あられとお小言を浴びせかけた。だけどその指摘は全部的確で、弁明の余地もなかったので、反抗する気は僕にはなかった。

 結局彼の言う通りになってしまった。恥ずかしいやら情けないやらで、僕は彼の目を見られずずっとうつむいていた。あの時の浮かれ切った自分を、叶うならはたいてやりたいぐらいだった。

 オーガスタスはひとしきりガミガミ怒鳴った後、こう言ってお説教を締めくくった。

「だいたいお前はいいことも悪いことも思い込み激しすぎなんだよ。もっと自分にできることを正直に見つめろ」

 そして彼は入れ替わりに夜行の仕事へ出て行ってしまった。

(自分にできること……)

 僕は考えた末、今すぐ行動に移すことにした。

 ペッパーさんとリンデンさんに頼んで、僕は帰る前にもう一度ある場所へ連れて行ってもらった。

 貨車置き場の隅に、トードが佇んでいた。眠ろうとしているのか、目を閉じている。起こすのも悪いかと思ったが、どうしても今日言っておかなければならないことがあった。

「トード!昼間は……ごめんね。君が忠告してくれたのに、僕は調子に乗って……ひどいことも言ったし、君の顔にまで泥を塗ってしまって、本当に、ごめんなさい」

「何ですかこんな時間に――――」

 僕は勇気を出して、彼に昼間のことを心から謝罪した。どう考えても悪かったのは僕の方だから、すぐには許してもらえないかもしれない……と不安になりながら。

 明らかにまどろみかけを叩き起こされた彼は、その時は不機嫌そうだった。が、一拍のちに僕の言葉を理解したのか、考え込むような顔になって、こう言った。

「……もういいです。意地の悪い言い方した僕も悪いですから」

 ――――本当?許してくれるの?僕は伏せていた目を上げた。トードは怒りとも微笑みともつかない不思議な表情で、僕を見ている。それからおもむろに口を開いた。

「初めてですよ。あなたみたいな機関車」

「僕のような出来の悪い奴がってこと?」

 僕は思わずそう口にした。しかしトードは一つ瞬きをし、こう答えた。

「いいえ。ブレーキ車の言うことを、ここまで素直に聞いてくれた機関車が、ですよ。……あまつさえ謝りに来てくれるなんて」

 彼はそう言うと、またしばらく間を置き、それから思い切ったように、僕を見て尋ねた。

「名前、もう一度訊いていいですか?」

「ああ……オリバー。オリバーだよ」

 唐突にそんなことを聞かれるとは思っていなかったので、少し戸惑いながら答えた。トードは首を傾げるような表情をし、それから初めて僕に向けて、にこりと微笑んだ。

「そうですか。改めてよろしく、オリバーさん」

 とても優しそうな笑みだった。それを目にした瞬間、僕は本当に嬉しくて、危うくこれは自分の事故が招いたのだということさえも忘れそうなぐらい、幸せな気分で胸がいっぱいになった。

「こちらこそよろしくね、トード」

 僕もそう返した。

 人間みたいに握手が出来ないのを、これほど悔しく思ったことはない。僕らはそこで初めて、本当の友達になり始めたのだった。