第二幕 ブレーキ車と4836
そんな感じで、フォローされはしたものの、僕の赴任初日は散々なものになってしまった。
さすがに日にちを重ねるごとに、後ろ向きで走ることには慣れていったが、それからも僕は立て続けにトラブルを起こした。
お客さんには文句を言われ、大きな機関車にはからかわれたが、駅長さんには成長スピードなんてそれぞれだと、優しく励ましてもらった。毎度とは言わないまでもいつまでもこんな調子なので、整備士のアンソニー・トワイニング氏には本当にお世話になった。たった数カ月のうちに、僕ほど整備士と仲良くなった機関車はいなかったろう。しかし考えようによっては、それは結果として良かったのかもしれない。
そんなこんなで過ごしていた、ある日のことだった。
それは端から見れば何でもない平凡な日のこと――――だけど、僕にとって最も重要な、運命の日とも言える一日だった。
それは唐突に駅長さんのこんな言葉で始まった。
「今日は貨物運搬をやってもらおうかな。忙しくて、手が足りないんだ。君はちょっと貨物向けとは言い難いが……いろんな仕事をやってみるのもいい経験だろう」
彼はそう言って、それから僕らにこうアドバイスした。
「少々重い荷物だから、ブレーキ車を連れて行くといい。ちょうど、余りのブレーキ車が貨車置き場に置いてある。ちと古いが」
「ありがとうございます。探してきます」
僕はそう言って、その‟ブレーキ車”を探しに向かった。
「ブレーキ車、ブレーキ車、ブレーキ車っ……と。どこにあるんだ?」
ペッパーさんが口ずさみながらあちこちを見回す。
と、貨車置き場の端に、灰色で屋根のついた貨車が一台、ぽつりと佇んでいるのが見えた。
「もしかして、彼ですか?」
あまり見たことの無い貨車なので、僕はなんとなくそう思った。
「それっぽいなあ。古いっつってたし、あいつで合ってるんじゃねえか?」
「しかし16トンとはまた古風な……」
二人の目から見ても、どうやら彼で間違いないらしい。
灰色の貨車はうつむき加減で線路の隅に立っていた。
目の前まで近づいていって、僕は彼に尋ねた。
「君の名前は?」
すると灰色の貨車は気だるそうに目を上げ、僕にこう告げた。
「トードです。大西部鉄道の16トンブレーキ車。番号は56831番」
「トードかぁ。よろしく――――」
「よろしくと言いたいところですけれど、あなた、すごく事故率高いですよね。大型機や作業員さんの話には聞いていますよ。僕は仕事の出来ない機関車に従う気はありませんので」
「!?えっ……」
挨拶を返そうとした途端、間髪入れずに厳しい顔で言い放たれ、僕は動揺した。
みんながどう言ったらいいものか迷っている間に、彼は少し表情を緩めてこう言った。
「ご心配なく。他の貨車のように馬鹿な悪戯をしたりはしませんから。むしろあなたの暴走や慢心を僕が止めなくちゃならないわけです、ですからあまり大きな顔をしたり、頭ごなしに命令するのはよしてくださいね」
「なんか気難しそうな奴だなぁ、おい」
会話を聞いていたリンデンさんがこっそりつぶやいた。ペッパーさんも首を捻ったが、結局はこう言った。
「ま、いいや。とりあえず繋いでもらおう」
トードの車掌さんはセージさんといった。姓はカー=ミドリカワという変わった名前だった。昔東の方の国からやってきた移民の子孫だという。それで納得した。
「よろしくな」
「ええ、よろしく」
ペッパーさんたちとお互い握手を交わしあい、セージさんとトードも僕の仲間に加わることになった。
走り出して間もなく、僕は貨車を牽くことがイザベルと走るのとはまったく違うことなのだと気付かされた。
貨車たちは絶えずぶつぶつ言い、ぺちゃくちゃお喋りしてなかなか素直にはついて来てくれない。まあ、彼らだって仮にも大西部鉄道の所属だったから、僕がその後行くことになるソドー島の貨車よりはましだったが(これはあまり大きな声で言えることじゃないが……)。
とりわけ僕が新顔なので、彼らは文句を言い合い、隙あらば何か悪戯してやろうかと画策し合っていた。そこをすぐさまトードが締め上げ、隊列が乱れないようにしてくれた。貨車たちは余計にぶつぶつ文句を言ったが、それで僕は安心して走ることが出来た。
かなり荷物が重いので、ブレーキを掛けようとすると嫌でもその重みを感じる。そこをトードとセージさんがサポートしてくれた。おかげで初めてだけれど事故になることなく、配達をやり遂げることが出来た。
無事に届け物を終えて駅へ帰ってきて、僕は切り離されたトードに改めてお礼を言った。
「あの……今日はありがとう」
「別に、これが僕の仕事ですから」
トードは相変わらず無表情で、素っ気なく言った。それから僕の方を見ると、こう言い放った。
「用はそれだけですか?」
だったらすぐに帰れと言わんばかりだった。その目線に僕は怯えにさえ似たものを感じ、口ごもって、やっとこうとだけ言った。
「いや、別に……さよなら」
そして追い返されるように、彼の元を後にした。
駅舎の裏手まで戻ってくると、オーガスタスと、それから、彼のブレーキ車らしい貨車が話し込んでいた。
僕らと違って、とても楽しそうだった。時々ガスが冗談を飛ばし、それを聞いて彼女が笑い転げている。なんだかうらやましくて、思わず足を止めてふたりを見ていた。
するとオーガスタスではなく、ブレーキ車の彼女の方が先に僕に気づいた。
「あら、弟さんじゃありませんのー、ガス?」
「あ」
「あ?」
呼びかけられて、僕ははっとした。同時に兄も僕に気づく。
僕の表情を見ると、オーガスタスはすぐさま前に回ってきて、僕に正面切って話しかけた。
「どうした、しょぼくれちまって。なんか百年前のじいさん機関車みたいだぞ。まだガキのくせによー」
「ちょっとね」
僕は気のない返事を返した。
「新しい相棒のことかい」
ガスはふいに真剣な目になって、僕に尋ねた。僕はうなずいてこう切り出した。
「そうなんだよ。……あんまり僕のことを気にいってくれないみたいだ」
そう言うと彼もため息をついて、含みのある台詞を語りだした。
「まあ、いろいろあんだよ。貨車と機関車の間にはな。貨車どもは確かに荒くれだが、俺は機関車の方にも問題があるんじゃねえかと思う。……ほら、ご覧」
オーガスタスはそう言って、目線で向こうの方を指した。つられて向こうを見る。
「おらさっさと行けよ!もたもたすんな!」
「いててっ……」
そこには同じように貨車を扱っている機関車たちがいた。だけど、そのやり方は貨車たち以上に乱暴だ。ぶつかったり無理に引っ張ったりするたびに、貨車たちがめいめいに悲鳴を上げる。
「頼むからもっと親切にしてくれよ!これじゃ壊れちまうよ!」
貨車たちがそう頼んでも、機関車たちは知らん顔だった。
「知ったことか、俺たちと違って、お前らの代わりなんていくらでもいるさ」
ずいぶん理想とは程遠い光景だった。名誉ある老舗私鉄として、立ち居振る舞いを重んじよと躾けられている僕らなのに。貨車たちが一筋縄ではいかないということは僕も分かったが、そんな荒っぽく扱っていいものだろうか。
この時僕は、まだ鉄道車両たちの階級も確執も何も知らなかったが、それは紛れもなく、僕が今まで知ることの無かった、鉄道を動かすもの達の暗い陰だった。
何とも言えない気分になって、僕はガスの方へ向き直った。彼は僕の居心地悪さを察したのか、人間なら肩をすくめてるときのような表情をして、それから憂うようにこう言った。
「ああやって上から威張り散らされたら、誰だって嫌になるさ。よっぽどの被虐趣味でもない限りな」
「あらやだ。被虐趣味ですってー」
彼のブレーキ車が面白そうに笑う。トードなら絶対に見せてくれない表情だな、とふいに思ってしまった。
「オーガスタスは彼女と仲いいんだね」
僕は彼に尋ねた。オーガスタスはにやりと笑って、こう言った。
「まあな。俺とこいつは気が合うからな。いろいろあったし」
「そうよー。かわい子ちゃん、あなたも頑張りなさいな」
彼女も僕に向けて親しげに言う。
曖昧に笑う僕に、兄さんは力づけるようにこう言ってくれた。
「お前が誠意をもって接すれば、そのうち心を開いてくれるよ」
僕はうなずいて、いつかトードともこんなふうになれたらな、と胸の内で願った。
*
季節はやがて流れ、あっという間に秋も過ぎて冬がやってきた。
この国の冬はとかく陰鬱で重い。初めて雪に晒された僕もその温度と厄介さに難儀していた。
トードと僕は相変わらずぎくしゃくしていたが、とりあえず、話しかければもう少し会話を交わしてくれる程度にはなっていた。鉄道の輸送量はますます増え、僕らにもたびたび貨物の仕事が頼まれるようになった。支線を出てかなり遠くの街まで向かうこともあった。だけど、イザベルとの旅客輸送は上手くいっていたし、トードとの仲は微妙にしろ、貨物輸送でトラブルになることもなかったので、僕はその頃、すっかり仕事が楽しくなっていた。
「なんか妙に機嫌いいな、オリー?」
自然と笑顔になる僕に、オーガスタスが話しかけた。今日の始発は彼が担当なので、彼専用の客車のオクタヴィウスさんを連れている。僕はうきうきしてこう答えた。
「最近ようやく楽しくなってきたんだよ。雪は嫌いだけどね。貨車の仕事だって上手くこなせるし」
「お前、そりゃたぶんあいつがついてるからだぞ」
僕の様子を見かねたオーガスタスはあくまで冷静にそう言い放った。
「あいつは賢いからな。お前がそんな浮かれててもきっちり御しきってくれるだろうし」
「……浮かれてなんかいないよ!」
弱いところを突かれた気がして、僕はすぐさま言い返した。それから決まり悪さをごまかすように、しばらく考えてから言い訳を並べた。
「ただ……ちょっとばかし自信がついてきただけだよ。本当さ。初めのころに比べたら、僕もだいぶ成長したろ?」
「ったく、一丁前に……」
オーガスタスは呆れたようにつぶやく。それから僕の方を見て、真面目な声で言った。
「お前、このごろ長旅の頻度が高いだろ?事故が無くてもちゃんと、トワイニング氏にメンテしてもらってるのか?トードがいたとしても、自分のブレーキも確かめとかなきゃ駄目だぞ」
「大丈夫だって!僕は若いし、丈夫なんだよ。全然疲れてもいないし」
そう言われたが僕は笑って否定した。実際、連日走っていてもどこもなんともなかったし、むしろ今は走りたい気分だった。疲れている暇などない。
「だけどなぁ――――」
「オリバー、行くぞ!」
ガスが再び口を開こうとしたところで、ペッパーさんが迎えに来た。
「はい!……じゃ、またあとで。行ってくるね」
呆れ顔の彼を残して、僕は颯爽と機関庫を後にした。
あとに残されたガスとオクタヴィウスさんは、そのときこう言い合っていたらしい。
「まずいなぁ、オリーの悪い癖が出たぞ。何事も起きなきゃいいが……なあ、タビー」
「そうですね……」
ふたりのつぶやきは、浮かれきった僕の耳には入らなかった。