ゆっくりと滑るようにレールの上を走って行きながら、僕は少しずつ楽しくなってくるのを感じていた。それはやはり蒸気機関車として、僕に生まれながらに刻み込まれた本能だったのかもしれないし、この世界で、小さくても仕事を得て役割を果たせるという喜びから来るものだったのかもしれない。
走っているうち、この駅が結構広いということが分かった。しばらく走ったところでようやく、順番待ちの貨車や客車たちがいる場所に着いた。
「ああ、あんたらのは多分あれだよ。そこに立ってる奴だ。連れて行っておくれ」
ペッパーさんが操車場の作業員さんに訊くと、彼はほど近い引き込み線の一角を指差した。
そこにはチョコレート色とクリーム色に塗られた、つやつやと輝く一台の客車が佇んでいた。
「こんにちは!私、イザベルよ。あなたと組んで働くことになったの。よろしくね」
彼女――――オートコーチのイザベルは明るい高い声で僕に挨拶した。
「こんにちは、イザベル。僕はオリバーです」
僕も彼女に自己紹介した。もう名前を言うのもだいぶ慣れたものだ。イザベルは屈託なく微笑み、それで僕らは上手くやっていけそうだと悟った。初めて会ったときから彼女はとても好感が持てたし、それは今だって変わっていない。
「でも組んで働くってどういうこと?」
僕は疑問に思ったことを、彼女に尋ねた。すると彼女は微笑んで、少し誇らしげに、こう説明してくれた。
「あなたと私はちょっと特別仕立てなのよ。オートトレインって言ってね、あなたが私を引っ張るだけじゃなくて、機関士さんさえいれば、私があなたを動かすこともできるの。私と一緒なら転車台の無い支線でも、向きを変えずに走れるってわけ。分かった?」
「……たぶん……」
分かったような分からないようなことを耳にし、僕は曖昧に返事をした。考えてみれば線路のことすらよく知らないのだから当たり前だったかもしれない。転車台も、支線も、‟オートトレイン”も、言葉としてはおぼろげに知っていても、その実態は未だ未知のものであった。
「……まあ、習うより慣れろね。走ってるうちにすぐ呑み込めると思うわ」
イザベルは困ったように苦笑いしてそう告げた。僕はちょっと申し訳ない気持ちになった。
「何かあったらこの鈴を鳴らすからね。よーく気をつけるのよ」
彼女はそう言って、僕らは連結されて走り出した。
行きはまったくもって順調だった。僕のピストンは滑らかに動き、ロッドから車輪へと至る一連の足回りは、完璧に同調された生ける鉄のリズムを刻んでいた。
僕らの走る支線は市街地から遠く離れ、ひなびた小さな田舎の街へ向かう細い路線だった。走れば走るほど、周りは町から緑の農村に変わり、美しい風景を描き出す。僕は今でも、この路線には特別な思い入れを持っている。今ではどうなったかも分からない風景だが、数十年経った今も、鮮やかに思い出せる宝物のような路線だった。
やがて終着駅へ辿り着いた。
行き止まりの線路の端に立ち止まり、お客さんが駅に降りていく。
「さて、引き返すか」
「はい」
ペッパーさんが言った。僕は反射的に返事をしたものの、自分の止まっている足元を見てふと思った。
「どうやって帰ればいいんだろう?」
線路はどう見ても一本っきりで、僕が向きを変えられるような機構はどこにもない。あくまで線路の上しか走れない僕は、人間のように自分で向きを変えるわけにはいかないのだ。
複線?でもここに来るまでにもそんなものはなかった。じゃあ他の誰かに迎えに来てもらうとか?
戸惑っていると、僕の後ろでイザベルが言った。
「ここの支線は一本道なのよ。転車台がないから、バックで帰るしかないの。私が見ててあげるから、あなたは後ろ向きで私を押してってちょうだい」
「えっ!?後ろ向きで?」
僕は驚いて思わず叫んだ。しかし僕の機関士も助手もあっさり聞き流しただけだった。
「そういうこと。じゃ、行くぞ」
そしてペッパーさんはにやっと笑い、イザベルの方へ乗り込んで行ってしまった。
「え、あの、ちょっ、ちょっと待って――――」
何か言う暇もなくイザベルは動き出し、僕はバックで走り出してしまった。
ついさっき来た道を後ろ向きで走り――――というか、引きずられている。
イザベルは楽しそうだったが、僕は気が気じゃなかった。
「こ……怖い!後ろが見えないんだけど!」
震える僕に、彼女は明るい声で力強く言った。
「大丈夫よ!私を信じて!」
景色は飛ぶように流れてゆき、見知った風景になってきた。
「よっしゃ、もうすぐ駅だぞ」
ペッパーさんの声が聞こえた。そろそろ止まらなければならなかった。
ところが僕ときたら、呆然としていたのと、寝不足でぼんやりしていたのとで、すぐに反応することが出来なかったのである。
「……変だな、スピードが落ちねえ」
怪訝そうな彼のつぶやきが聞こえた。
「おーい、駅通り過ぎちまうぞー!?」
「なあっ!?」
リンデンさんが僕の運転室で叫び、次いでペッパーさんが驚いた声を上げた。
慌てたイザベルが金切り声で叫ぶ。
「オ、オリバー!ブレーキ掛けてっ、ブレーキ」
「あ、わっ」
僕は気づいて自分のブレーキに意識を戻したが、もう遅かった。
――――ガンッ!
「きゃあ!」
「痛っ」
タイミングが遅すぎ、次の瞬間、僕は後ろ向きで思い切りイザベルにぶつかっていた。
しばしふたりとも呆然として口が利けない。
「あーっ、やっちまったな。やっぱまだ慣れんわ」
ペッパーさんが悔しそうにつぶやいた。リンデンさんも不満そうにこぼす。
「おい気を付けろよぉ、パット」
「悪ぃ、みんな」
彼は申し訳なさそうに苦笑いした。だけど僕はもっと申し訳ない気分だった。
駅長さんは軽い事故だと言ってくれたが、初日からすっかり気落ちしてしまった。
「おう、お帰りー」
しょげ返って操車場に帰ってきた僕に、先に戻ってきていたオーガスタスが声を掛けた。
「どうだった?初めての旅は」
「全然。……最悪の気分だ」
僕はそう答えた。しばらく前の楽しかった気持ちはすっかり吹き飛んでいた。
「お前なぁ、そんなこと言ってちゃ、この先オートトレインは務まらんぜ」
オーガスタスは呆れたように笑って、僕にそう言った。だけど僕はとても笑う気持ちになれなくて、下を向いて唇を噛んでいた。
するとオーガスタスは僕の前に回り、昨日と同じようにこつん、とバッファーをぶつけてきた。
「情けないツラ、してんじゃねえよ」
はっとして目を上げる僕に、彼はもう一度笑いかける。懐の深さを思わせる兄の顔に、僕は少しだけ安心した気分になれた。
「別に軽くぶつかっただけで怪我人もいなかったんだろう?初めてにしちゃ上出来だ。最初は誰でもそんなもんさ」
「本当に?」
にやりと笑いながら、彼はそう言った。僕が訊き返すと、彼はうなずきながらこんなことを言った。
「ああ。俺の時なんかもっと酷くってさ。危うく初日から解任になるとこだったぜ」
「えーっ」
そう言ってオーガスタスは、自分が初めてオートコーチを牽いた時のことを話し出した。初めて走るのが嬉しくて、スピードを出し過ぎて後ろ向きならず前向きでもぶつかったとか、帰りは途中で連結が切れて危うく置いてけぼりになりかけたとか。昔の彼の初々しいエピソードを聞きながら、僕はへこんでいた胸の内で、誰でも失敗するんだなぁ、と、しみじみ思ったことを覚えている。