霧はまだ少し上空を漂っている。淡いミルク色の空を、昇りたての太陽の光条が貫く。
冷えた空気を肺一杯吸い込みながら、通勤通学客であふれる朝の市街を歩く。
「朝から物理だるいな~」
「俺は好きだが」
俺が答えると、ボリスは面白くなさそうに口を尖らせた。
「お前は優等生だからいいじゃん。それだけ分かれば楽しいよそりゃ……俺は寝とこ」
そんな態度だから馬鹿呼ばわりされてるんだ、と言おうかと思ったが、やめた。こちらもまだ低血圧でぼんやりしてるし、どうでもいい。
そう思っていると、ボリスはいつものくだらない勝負を持ち掛けてきた。
「なあ、学校まで競走しようぜ」
「またか?俺に勝てないのは分かりきってるだろう」
呆れて言い返すと、彼はまた憤慨した。
「それこそやらなきゃ分からねえだろ!見てろ、今日こそ絶対勝つ」
拳を握りしめ、鼻息荒く道の向こうを見やる。張り切ってるが、どうせ俺が勝つんだと密かに笑う。ちょうどいい、未だ調子の上がらない頭も冴えることだし。
ほどなくわりと大きな交差点に差し掛かる。信号は赤。俺達の“競走”は、いつでもここがスタートだ。
「学校まで先についた方の勝ちな。3,2,1……Go,シュート!!」
言うが早いか、ボリスは通行人を押しのけ、猛然と街道を突っ走っていった。
「ふん、最初からそう飛ばすと息切れするぞ」
こちらは軽く流しながら、あえて先に行かせてやる。
子供っぽいな、と思いつつ、勝負事となると、やはりプライドが負けることを許さない。心臓と耳元でかすかに血が騒ぐ。離されすぎないように速度を保ちつつ、俺はボリスと違う横道に逸れた。
冷たい空気を切り裂いて数分も行けば、古びたレンガ造りの建物が見えてくる。登校する生徒たちの話し声に交じって、バタバタした足音と荒い息遣い。
「はぁ、はぁ…………やった、今日こそユーリに勝っ―――――」
その声を聴くと同時に、後ろから飛び出して肩を叩いた。
「お疲れっ」
「うわ!なんだよもういたのかよ、いつの間に……どこを通ってきたんだ?」
叩かれたボリスは本気で驚いたらしく、見た限り三センチほど飛び上がった。俺は笑いをこらえつつ、澄まして頭上を指した。
「上だ」
「はぁ!?」
モスクワ中心街から離れたこのエリアは、成金が建てた高級住宅と、それとは対極の昔ながらのアパートメントが多い。塀やアパートの外付け階段、ベランダを伝って空中を渡れば、道を行く人とぶつからずに行けるという寸法だ。種明かしを聞くと、ボリスは呆れたようにあんぐりと口を開けた。
「パルクールかよ……不法侵入で怒られるぞ?」
「はっ、今更」
俺は鼻で笑い飛ばすと、校門をくぐった。
校庭も校舎も、生徒の声で満ち溢れている。心なしかこちらに向けられているような視線を感じる。
校舎の入り口に着くと、ボリスは手を振って俺に言った。
「じゃ、また夕方な」
「ああ」
その銀髪の後姿を見送った後、一つ長いため息をついて、校舎の廊下を別方向に歩き始めた。
長い廊下を進むたびに、すれ違う群れの間から声が聞こえる。
「ねえ、あの人」
「ほんとだ、八年の二組の……やっぱりかっこいいわね、すごいイケメン」
「でもなんか近寄りがたいのよね~。なんだろう、ちょっと粗相したら射殺されそう」
「遠くから眺めてるのがいいのよ……あの美しさは神性を帯びてるわ。“神に愛された美少年”ってやつ。私たちみたいな下々の者は、同じ空気を吸うのさえ許されないわよ」
「ああ、私のヒュアキントス……いいえアポロン。そう速日の輝けるアポロン様よ」
ブレーダーやってた頃も浴びなかったぞ、というような、過大で歪んだ評価が飛んでくる。小鳥の声と違って意味を認識できるから喧しい。もう誰とも喋る気にも、振り向く気にもならず、淡々と東棟の教室へ向かった。
三階への階段を上り、教室の扉を開ける。待ち受ける環境はどうせ一緒だが、たかだか三十人を相手にすればいいから、いくらかほっとする。
教室には半分ほどの生徒が集まっていた。扉を開けた瞬間、十数組の目が一斉にこちらを向く。なんとなく、空気が変わったように感じる。
その誰からも目を逸らして、俺は中へ踏み入った。
「おはよう」
爽やかスポーツマン、といったタイプの奴が、俺に声をかけた。
「おはよう」
こちらも挨拶だけ交わす。他にも何人かが挨拶を交わしてきた。
「おはよう!ユーリ!」
「おはよう」
女子たちは挨拶したきり、目配せしてひそひそし合っている。そのまま柄の悪い一団の前を通って、自分の席へ移動する。
「ちっ、今日も来たのか、ごみ溜め野郎」
余計な一言も聞こえるが、無視して自分の席に座る。窓際の後列一番奥は、俺達のような新参者のための特等席だ。
なおもざわつく教室の喧騒をよそに、校庭の向こうを見やる。霧も晴れて、すっかり嫌になるほどの秋晴れだ。水気を含んだ空の青に、黄金色の楡の葉が映える。綺麗だなどと思っていると、教師が入ってきて高らかに宣言した。
「さあお前ら席に就け。静まれ。授業を始めるぞー」
騒いでいた奴らがガタガタと席に戻り、皆一斉に教科書を取り出す。どこかで見た光景だなと思いつつ、そこに(少なくとも表向きは)強制や圧迫がないことに安堵を覚える。
「まず前回の復習から行こう。古代ギリシャ、アテナイを中心とした学問の発展について。ソクラテスの略歴と彼の思想、そして彼に繋がる学者たちについておさらいするぞ。では12ページを開いて」
授業が始まってもなおひそひそ声は止まない。周囲の、“普通”の連中がこちらに向ける目は、いつだって好奇であり、崇拝であり、また嫌悪……そのいずれかだ。俺がもう持つべくもない、“多数派”と“常識”の偏光フィルターを通して見た俺は、きっと都合の良い憂いを帯びた、“深窓の美少年”にでも見えるのだろう。
刑死した哲学者と、左手の作り出す影を見ながら、俺は思う。
今日も、俺の周りの世界は騒がしい。
だが、誰がどう思おうと、俺は俺だ。
FIn.
『槿花一朝のヴァレーニエ』と同じく、再燃最初期の作品、そしてPixiv時代の最終期投稿作品。
シリーズものの1話目になります。2話目は鋭意制作中…………の、予定だったが、単にユーリ誕記念のはずだった『ブルーボイジャー』が始まって、先に一大長編に熟してしまったため、現在凍結中。
一応この後の構想はひととおり作ってあるんだけど、『ブルーボイジャー』の方が圧倒的に幸せな世界線になってしまったから正直筆が進まないんだァ~……私は基本的にボーグの連中を幸せにしたいという動機で二次小説書いてるので、誰かが泣くことになるなら書きたくねぇ。いや普通に泣かせてて何言ってんだお前ではあるけど。
ただこの話の構想が原型としてあったから、その後『ブルーボイジャー』が書けたことはたしか。同人誌版購入or再録の暁には読み比べてみてください。